馬込勘解由屋敷跡
宝田恵比寿神社
宝田神社は慶長十一年(1606年)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。
徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在皇居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引卒して此の地に集団移転をしたのであります。
馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。
作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は地主となって、三伝馬取締役に出世し、御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢・駿河・遠江・美濃・尾張等、家康公ゆかりの国々より商人を呼び集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商売発祥の地として大変賑わったのであります。
現在も周辺の老舗、大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いております。
宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日の「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年また新たまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商人にとって大切な年中行事として老舗は現在でも恵比寿講をお祝いして居るのであります。又若者により浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられております。(大伝馬町・株式会社江戸屋サイトから)
身延別院
徳川三百年に亘って小伝馬町牢屋として怖れられていた牢獄には、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎のような幕末の志士もいれば、蛇蝎の如く人々から恐れられた盗賊や殺人鬼もおり、また後に浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなった八百屋お七のような乙女もいた。その牢屋は明治になって取り壊されたが、その跡地は誰も住む人もなく放棄されていた。ここへ法華の道場を建立して大勢の亡霊たちを慰めようとした一団の人々が現れた。時の身延山久遠寺七十三世、新居日薩上人を中心に、深川本立院江川勝義、浅草玉泉寺鵜川日行、後に身延山八十世に就任した若き日の市川日調の三上人と、これを外護した強力な法華の信者、鈴木伊兵衛、沢田治助、藤懸与左衛門と新居日薩家一族の人々である。
明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。この祖師堂建立事業の中心になった組織が清浄結社で、新居日薩上人がその普及拡大に努めたものであるが、僧俗一体となって同修同行の実を挙げる講社組織である。その第一結社がここ日本橋に生まれ、島根、福岡、新潟、千葉、長野等で盛んになり、やがて全国的に法華の団体ができたのである。(『新居日薩略伝』より) (同院サイト『身延別院縁起』から)
十思公園
十思スクェア
旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域との つながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。
(ee-tolyo.com から)