蔦屋重三郎「耕書堂」跡
蔦屋重三郎 1750‐97(寛延3‐寛政9)
つたやじゅうざぶろう
須原屋市兵衛と並ぶ江戸時代の代表的な出版業者。蔦重と俗称される。江戸吉原に生まれ,喜多川氏の養子となる。初め吉原大門外の五十間道に店を開き,細見(さいけん)(遊郭案内)を売っていたが,1774年(安永3)に初めて版元として《一目千本花すまひ》(北尾重政画)を出した。その後,日本橋通油町に店を構え,いわゆる田沼時代の開放的な世情を背景とする江戸出版業の隆盛の一翼を担う。商才は鋭敏,気骨も充困した人物で,多くの文人墨客,戯作者,絵師と交友をもち,世話をした。作家では大田南畝,恋川春町,山東京伝,曲亭馬琴など,浮世絵師では北尾重政,鍬形腿斎,喜多川歌麿,葛飾北斎,東洲斎写楽などと組んで,黄表紙,洒落本,狂歌絵本,浮世絵版画の評判作を相次いで出版し,天明後期から寛政中期の江戸の文化界をまさに席巻した。寛政改革に伴う出版取締令でとがめをうけ,財産の半分を没収されるが,その反骨精神は没するまで続いた。
(狩野 博幸・平凡社世界大百科)
郡代屋敷跡
所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目付近
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政四年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
文化三年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
平成六年三月
中央区教育委員会
両国広小路記念碑
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため 町会の総意により この碑を建てた
昭和44年11月3日
中央区日本橋両国町会 建碑
柳橋
所在地 中央区東日本橋二丁目
台東区柳橋一丁目 (神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、"柳橋川へ蒲団をほうり込み"と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会