日本橋室町の福徳神社の近くに、江戸屈指と言われながらも明治初期に姿を消した謎の
料亭「百川(ももかわ)」がありました。
高級料亭は、江戸文化が成熟するにつれて登場した料理屋形態で、凝った料理、盛り付
け、器等を料理屋が競い合う中で、遊び心も加わりながら粋な江戸料理へと進化したそう
です。高級料亭は多くの文化人のサークルが形成され、江戸文化の発展に大きく貢献した
と言えます。
江戸時代には今でいう「グルメガイド」のようなものも数多く発行され、「狂歌懐石料
理双六(きょうかかいせきりょうりすごろく)」(双六形式で有名店を紹介するもの)に
は、山谷の八百善、深川の平清(ひらせい)等の名だたる高級料亭と並んで、百川の名前
も見られます。
百川は1760~70年代(明和~安永の頃)に創業し、文化文政(1804~30)の頃に最盛期
を誇ったようですが、明治の初めに忽然と姿を消しています。資料が少なく、どうした経
緯で店を閉めたのかは解りにくい点が謎めいていて興味をそそります。
浮世絵「百川繁栄の図」に描かれていたり、山東京山の随筆「蜘蛛の糸巻」では、通人が
遊ぶ四大料理茶屋のの一つにも挙げられており、文化人の会合という意味では、松平定信
などそうそうたる顔ぶれが集まり、文化サークルが形成されていったそうです。
また、幕末にペリーが黒船で来航した際には(1854年の2度目の来航時)、横浜で一行
を持てなしたことでも有名です。この時の料理は最高級の懐石料理で300人前+200人前の
控え分が用意されたそうで、値段は千両とも2千両とも言われています。
もう一つ「百川」と言えば、古典落語の「百川」も外せないと思います。
このブログを書くにあたり、三遊亭圓生の落語を聞きました。百川で奉公することになっ
た百兵衛(ひゃくべえ)さんと客(魚河岸の若い衆)が百川を舞台に「勘違い」を繰り広
げる話で、思わず笑ってしまいます。
今回は、百川をキーワードに、日本橋、人形町、堀留町あたりを散策しました。
まず、百川があった場所ですが、日本橋COREDO室町1とYUITOビルの間の道が浮世小路で、
この先に福徳神社がありますが、この界隈にあったようです。
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「浮世小路」ですが、このあたりには、加賀出身で町年寄の喜多村家の屋敷があり、加賀
では「小路」を「しょうじ」と読むことから「うきよしょうじ」と呼ぶそうです。また、
名前の由来は、ここに浮世風呂があり湯女のサービスが良かったとか、浮世ござを売る店
があったことからこう呼ばれたらしいです。
福徳神社は、9世紀頃からある非常に古い神社で、源義家、太田道灌等、武将の信仰が厚か
ったとのことです。徳川家康も数度も参詣しています。二代秀忠が参詣の際に鳥居に新芽が
出ていたのを見つけて、「芽吹神社(めぶきじんじゃ)」と命名し、それが別名ともなっ
ています。浮世小路の1本北側に福徳神社参道があり、「新浮世小路」と命名されていま
す。
釘型の西堀留川が福徳神社のすぐそばまで来ており、付近には塩河岸がありました。
川は明治の中頃に釘の部分が埋め立てられ、昭和初期に残りの部分も埋め立てられました。
また、落語「百川」には、浮世小路の他に芳町(よしちょう)、三光新道(さんこうじん
みち)の地名も出てきますので、それらについても散策してみました。
芳町は、今の人形町の一部を昔は芳町と言いました、「芳町花街」と言うように界隈は花
街としても有名です。落語では、百兵衛さんは芳町の千束屋(ちづかや)という桂庵(今
でいう職業紹介所)から百川を紹介された設定です。
芳町花街は東京6花街として現在も続いており、濱田屋という料亭が伝統を守っています。
また、大観音寺横にある「芸者新道」が花街の風情を最も残しているように思います。
※よし梅に代表される料理屋が並んでおり、良い雰囲気を出しています。
三光新道(さんこうじんみち)は、堀留町2丁目にある30メートル程の小道で、三光稲荷
の参道にもなっています。すぐ近くに梨園染で有名な「戸田屋商店」という老舗がありま
す。店の側面の壁に梨園染のサンプルを確認することができます。
落語では、百兵衛さんが、ここに住む常磐津の「かめもじ」という人を呼んでくるように
百川の客に頼まれるのですが。。。。という内容で出てきます。
以上
【参考文献等】
・「江戸散歩・東京散歩」(成美堂出版)
・「消えた料亭「百川」を追う」日本経済新聞 2014/7/3
・「落語「百川」の舞台を歩く」(http://ginjo.fc2web.com/001momokawa/momokawa.htm)