三島由紀夫氏が、瑤子夫人と見合いしたのは「銀座浜作」であったようですね。
猪瀬直樹の『ペルソナ』では、次のように述べられています。
>杉山瑤子との見合いは(昭和33年)4月13日である。(湯浅)あつ子が同席して銀座の浜作で食事をした。それからナイトクラブへ誘った。ダンスをしながら、ステップがするりと流れないので「ほとんど遊びズレがしていないな」と判定した。三島はあつ子に礼を述べ、瑤子を自宅まで送った。自宅まで送る、と言いだしたとき、決まりそうだな、とあつ子は思った。翌日、三島からあつ子へ電話がかかった。「なかなかよろしいではないか」とあっさりと言った。
その直後、倭文重は東大病院に入院した。入院前夜、三島は倭文重と浜作で"最後の晩餐"をすませた。」(289)
(ここで、母との"最後の晩餐"と言っているのは、母の寿命はあと4ヶ月と診断されていたからである。しかし、手術の結果、腫瘍は悪性でないと判明した。)
この見合いについては、Wikipedia「平岡瑤子」では、次のように述べられています。
>4月13日、湯浅は瑤子を連れて銀座のドイツ料理店「ケテル」で三島と引き合わせ、その後3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った。三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った旨を湯浅に報告した。瑤子の感想の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうな声であったという。
以前に述べたように、三島は、その後も頻繁に「銀座浜作」を利用しています。
徳岡孝夫著『五衰の人』(文春文庫)によると、徳岡氏が最後に三島氏に会ったのは「浜作」でした。昭和45年、三島さんが亡くなる直前の9月、徳岡氏は三島氏に「浜作」へ呼び出され、その時、徳岡氏は約束の時間に40分も遅れるという失敗を犯したようです。
「いまでもそのときの失敗が恥ずかしく、記憶の戻るのが怖さに、その店を再訪したことがない。息せき切って引いた表戸の横に『関西割烹』と出ていたのを覚えているから、銀座の浜作だったと思う。階下はカウンターで、二階が座敷になっていた。階段を駆け上がって部屋に入ると、三島さんは畳の上に寝そべっていた。」と書かれている(164)。
また、ジョン・ネイスンは「私は三島と銀座の「浜作」で待ち合わせ、白木のカウンターでかなりの酒を飲んだ。三島は上機嫌だった。もちろん私もそうだった。三島は私に翻訳の礼をいい、私は彼の期待に応えられてほっとしたといった。」と書いています。(ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝―』野口武彦訳 新潮社)
I met him at Hamasaku, a Japanese-style restaurant on the Ginza patronized by the literary establishment. We ate at the wooden counter and drank a lot of sake. Mishima was in high spirits and naturally so was I. He thanked me for the translation; I expressed my relief at having lived up to his expectations. (JOHN NATHAN "MISHIMA A BIOGRAPHY; 204 )