歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
例えば、日本橋の橋名について、『ものしり百科』では、「橋名の由来には諸説あるが、幕府が編さんした地誌『御府内備考』には、『この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありと云ふ』と記されている」と述べている(116頁)。この説明は、「橋名の由来には諸説あるが」と言っているし、もちろん誤りではない。しかしながら、『御府内備考』とは文政12年(1829)に幕府が編纂した地誌である。
日本橋は、慶長8年(1603)、徳川家康によって架けられたとされる(『ものしり百科』26頁)。この架設当時は、家康公入府の天正18年(1590)から、まだ10年程度しか経過しておらず、この周辺もまだ葦や薄の生い茂る荒涼たる地帯であったはずである(『ものしり百科』116頁)。それを、その後、230年近くも経過した後に、"お上"が編纂した地誌だけを橋名の由来根拠にしてしまうのは、あまりにも乱暴ではないだろうか。
池田弥三郎氏は、『日本橋私記』のなかで、「わたしの(日本)橋名起原説」として次のように述べられている。
(1) 日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」と言われていた。
(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。
(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。
――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)
最近の書物では、『ものしり百科』もそうであるが、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われる。しかし、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと考えるべきではないかと思う。