今年も土用丑の日が近づいてきたが(今年は一の丑が7月30日のよう)、『ものしり百科』では、「うな丼」の発祥地を江戸三座の一つ中村座としている(156頁)。
こうした食べ物の元祖だの発祥だのは、商標登録の制度もなかった時代のことであれば、必ずしも定説を決めることは容易ではない。上記『ものしり百科』では、その説明をうな丼発祥の「通説」としているが、竜ケ崎市のサイトを見ると、大久保今助が関わっていることには違いがないが、次のように説明している。
(http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/article/2013081500954/)
>江戸時代後期に江戸日本橋堺町に芝居の金方(資金を出す人)で、鰻の大好きな大久保今助という人物がいた。その今助が故郷である現在の茨城県常陸太田市に帰る途中、水戸街道を牛久沼まで来て、茶店で渡し船を待っているときに鰻が食べたくなり、蒲焼きとドンブリ飯を頼んだ。
ところが、注文した品が出てきたとき「船が出るよー」の声。今助はドンブリと皿を借り、ドンブリ飯の上に蒲焼きののった皿をポンと逆さにかぶせて船に乗り込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されていて、より柔らかくなり、飯にはタレがほどよくしみこんで、これまでに食べたどこの鰻よりもうまかった。
その後、どのように「うな丼」が広まったのかは、いくつかの説があります。一つは、今助が帰りに茶屋に食器を返しながら、その話をし、茶屋が出すようになったところ、水戸街道の名物になったというもの。もう一つは、今助が自分の芝居小屋でうな丼を売り出して江戸から広まったという説。さらに、うな丼が牛久沼の茶屋で出されるようになった一方、今助は、自分の芝居小屋で芝居に付きものの重詰めの代わりにご飯に蒲焼を載せさせて重箱を取り寄せ、それが江戸でうな重としてとして広まっていき、庶民にも、うな丼の形で提供するようになったという説もあります。