さぎごろ、「日本橋」名の由来について、その起源は「二本橋」であったとする池田弥三郎氏の所説を紹介したが、たまたま、これを否定的に解する説(『中央区区内散歩 史跡と歴史を訪ねて(第8集)』 中央区企画部広報課・編集発行 平成22年3月)(以下「区内散歩」という。)を発見したので、この問題を再説したい。池田弥三郎氏の所説は『日本橋私記』(昭和47年発行)で説かれたものであり、45年近く前の著作であるが、「区内散歩」は比較的最近のものである。
「区内散歩」は次のように述べる、
>池田は、日本橋は最初二本丸太を渡した程度の橋「二本橋」であっただろうといわれます。その粗末な橋は、おそらく工事用のものでしょうが、日本橋川の川幅からいって、丸太二本を渡した程度のものでは用をなさないでしょう。(25)
しかし、他方では、
>もっとも埋め立てに際して工事用に簡易な橋を架けていたということは当然考えられます。太い丸太を二本渡した程度のものであった可能性はありますが・・・(19)と、矛盾したことを言っている。
池田氏は
>日本橋の橋名の由来に触れた『見聞集』(慶長見聞集;江戸初期の見聞記。三浦浄心作。1614年(慶長19)刊。10巻)の前後の記事は、もう少し慎重に読むべきだろうと思う。
として、
>『見聞集』では、「江戸に古より細き流れただ一筋あり」とし、これに「橋五つ」わたしてあったけれども「みな、たな橋にて、名もなき橋どもなり」として、その五つの橋を、(1)雉子橋、(2)ひとつ橋、(3)竹橋、(4)大橋、(5)銭瓶橋、としている。
そして、
>こういう『見聞集』の記載は、橋の名というものがいかに自然発生的に出来上がっていくものかを説いていて、興味がある。丸木の一本橋だから一つ橋、竹で出来ているから竹橋。ほかのに比べて大きいから大橋。いかにも自然で平凡でありふれている。(53)
また、
>『紫の一本(ひともと)』という著作には「一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか」と書かれている。 このような「戯語」めかして書いてあることの背景に、日本橋はもともと「二本橋」であったのだが、それがいつか、同音連想で日本橋となってしまったという、その当時の人々がまだ知っていた巷間の「知識」が隠されているとみることは、決してこじつけではない。 (50) と説く。
そして、
>橋の名が、単純で端的な名付けられ方をしているのは、何も橋に限ったわけではなく、橋の名も含めて、地名の発生からしても、もともと単純であったのである。(54) と説かれるのは説得的で同感できるように思う。
「区内散歩」で
>二本が三本となり四本となっても、最初の「二本橋」の名称が残ったというのでしょうが、無理があるように思います。(25)
などと述べるのはおかしい。 「竹橋」が木橋にかわり土橋にかわっていけば竹橋という名が残るのは無理がある?とでも言うのだろうか。
すでに例に挙げた「一ツ橋」「竹橋」などのほか、「六本木」「二本松」などなど、地名とは最初の由来がそのまま残ったものが多いのであって、必ずしも現況に合わせて「改名」されていくとは限らないだろう。