先に、池田弥三郎氏が『日本橋私記』の中で、次のように述べて、「日本橋」の名は、原初には「二本橋」であったという主張の根拠とされていることを記した。
>『紫の一本(ひともと)』という著作には「一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか」と書かれている。 このような「戯語」めかして書いてあることの背景に、日本橋はもともと「二本橋」であったのだが、それがいつか、同音連想で日本橋となってしまったという、その当時の人々がまだ知っていた巷間の「知識」が隠されているとみることは、決してこじつけではない。 (50)
この『紫の一本』が「日本古典文学全集」(小学館)の第82巻「近世随想集」(2000年発行)に収められていることを発見したので、原文等を紹介しておきたい。
『紫の一本』は、近世前期の和学者・戸田茂睡(とだもすい)が著した江戸の地誌、随想である。戸田茂睡は、宝永3年(1706)に78歳で没している。この書の成立は奥書によると天和2年(1682)である。御城巡り、古城、山、坂・・・などの景地、景物による分類ごとに江戸の名所を類聚し、それぞれ長短自在に記述したものである。戸田茂睡は、和歌においても地名に特別な関心を寄せていたように見受けられる。
この中で、「日本橋」については、次のように記述している。
>「一ツ橋、日本橋ありて、三橋のなきは如何に」といへば、・・・・が云ふ。「一石橋、両国橋ありて三石橋のなきがごとく」・・・・・・・・・かぞふれば一石からは二本橋江戸橋からも二ほん橋哉・・・・・
(数えてみると、日本橋は西方の一石橋から二本目であり、東方の江戸橋からも二本目で、なるほど道理にかなった名であることだ)
池田弥三郎氏の主張には、かなりの説得力があるように私は思う。