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九番目の義士 間新六が見せた壮烈な切腹(2)

[CAM] 2016年9月25日 09:00

> 間新六も父や兄と隔たれ、同志9名とともに、麻布日が窪にあった長府藩上屋敷へ収容された。・・・・・・厳戒の中、穏やかな年末年始を過ごした新六らは、2月4日に切腹を申しつけられた。

 長府藩側は、切腹を儀式的なものとみて、幕府役人らにある提案を行っている。

〔切腹の脇差の事、扇を紙にて包み、十本支度仕り置き・・・・・・・・〕(『毛利家記録』

 
 新六の切腹は九番目だった。藩士江良清吉が介錯刀を構える中、新六は周囲の意表を衝く行動に出た。

 
{間新六郎は肌を脱がず、前に三奉(宝)を置き、脇差をとり、腹に突き立てたると・・・・}(『毛利家記録』

 
 赤穂浪士たちが、直接腹部を切ることのない、扇腹に準ずる形で介錯を受けていくものと思っていたギャラリーにとって、新六の最期の姿は驚愕すべきものだったようだ。壮烈で激しい切腹を経て、間新六は24歳で散った。

 
 >・・・その夜のうちに、新六以外の九名の浪士の遺体は泉岳寺へ搬送されていった。・・・・・・

 ほどなく中堂夫婦(新六の姉夫婦)は、新六の遺体を、彼らの菩提寺でもあった築地本願寺の墓地に埋葬したとみられる。

 
>泉岳寺では、遺体を搬送された大石内蔵助ら45名と同様に、間新六にも戒名を授け、ともに墓碑を建てた・・・

 
>時は経て、昭和3年4月8日のこと、朝日新聞の片隅にこんな記事が小さく載った。

 
{義士の遺骨移葬

 東京市公園課では、築地本願寺の墓地にある赤穂義士間新六郎の墓を高輪泉岳寺に移すべく、東京府に向け、その許可申請をする事となった。すなわち現在間新六郎の墓は単に碑だけで、遺骨は築地本願寺に埋葬してあるのである}

 
>その後の顛末は、昭和4年12月15日の朝日新聞に詳しく紹介がなされていた。

 
{義士の遺骨が行方不明

 妙な因縁の間新六郎のため、討入りの日に慰霊

・・・・・

 昭和4年2月13日、区画整理のため本願寺の墓地が掘り返される事になり、・・・掘り返されたが、墓石の下から出たのは、若き勇士の骨とは似ても似つかぬ骨壺二つ、・・・

 ほかの同士の者は、遺志通り泉岳寺に葬られ、死後も永く亡君に奉仕できたのに、新六郎だけは遺骨のありかも知れないとあっては浮かばれまいというので、14日の慰霊祭となったのである。}

 
>現在ではわずかに残される旧状写真によってしか確認はできないものの、昭和初年当時の新六の墓は元禄期の埋葬位置から、離れてしまっていたのである。

 結局、間新六の遺骨は見つかることもないまま、その後、墓石は現在の位置へ移動されていった。

 だが、その墓と、土に帰った遺骨は、主君浅野長矩が生まれ、事件当時に上屋敷が存在していた地からは間近にある。たった一人の赤穂浪士は、同志たちとは異端の地で、久遠に藩邸と主君の侍衛の任に就き続けているのだろう。

 
 『ものしり百科』では、触れられていないが、本願寺境内の供養塔には、このようなドラマが秘められていたのである。