三島由紀夫の小説『鏡子の家』の冒頭に、勝鬨橋とその近辺の描写があることは知られているが、勝鬨橋とその近辺の取材について、『裸體と衣装』の昭和33年3月10日(月)の部分で述べられている。
>毎日、書下ろし長篇「鏡子の家」を書き出さうと思ひながら、なかなか怖くて書き出せない。千枚となると脳裡の模索は何にもならぬ。月島の先の晴海町あたりの景色をプロローグに使ひたいので、タクシーに乗つて行つてみる。丁度午後三時、勝鬨橋の上る時刻である。これは使へる、といふ直感があつて、車を下りて、橋の上るさまをメモをとる。いよいよ晴海町へ行くと、數年前「幸福號出帆」(完全に失敗した新聞小説であるが、自分ではどうしても悪い作品と思へない)を書くためにここへメモをとりに来た時と比べて、完全に一變した景色に一驚を喫する。あんまりメモをとる感興が起らない。さらに晴海埠頭の對岸の東雲の突端まで行く。海に向つて數人の男が相談してゐる。密輸の相談にしては、声は高く、海はうららかで、それらしくない。(28-28)
三島由紀夫の小説『鏡子の家』は、昭和33年(1958)、雑誌『声』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年昭和34年(1959)に新潮社から、「第一部」「第二部」の2冊が同時に、単行本刊行された。その書き出しは下記のようである。
>勝鬨橋のあたりは車が混雑してゐるのが遠くからわかる。どうしたんだらう、事故でもあったのかな、と収が言った。が、様子で、開閉橋があがる時刻だとわかつた。峻吉は舌打ちした。ちえつ、埋立地はあきらめようや、じれったい、と言ふ。しかし夏雄と鏡子が、まだ一度も見たことのない、その橋のあがるところを見たがったので、可成手前に車をとめて、みんなでぞろぞろ鐵橋の部分を渡って見に行った。峻吉と収はいささかも興味のない顔をしている。
中央部が鐵板になつてゐる。その部分だけが開閉するのである。その前後に係員が赤旗を持って立つてゐて、停められた車がひしめいてゐる。歩道のゆくても一條の鎖で阻まれてゐる。かなりの数の見物人もゐるが、通行を阻まれたのをさいはひ油を賣つている御用聞きや出前持などもゐる。
電車の線路のとほつてゐる鐵板が、その上に何ものも載せないで、黒く、しんとしてゐた。それを両側から車と人が見戌つてゐる。
そのうちに鐵板の中央部がむくむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ、割れ目をひらいた。鐵板はせり上って来、両側の鐵の欄干も、これにまたがつてゐた鐵のアーチも、鈍く灯った電燈を柱につけたまま、大まかにせり上がつた。夏雄はこの動きを美しいと思つた。
鐵板がいよいよ垂直にならうとするとき、その両脇の無数の鐵鋲の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。両脇の無数の鐵鋲の、ひとつひとつ帯びた小さな影が、だんだんにつづまつて鐵鋲に接し、両側の欄干の影も、次第に角度をゆがめて動いて来る。さうして鐵板が全く垂直になつたとき、影も亦静まつた。夏雄は目をあげて、横倒しになつた鐵のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。
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ずいぶん永く待つたやうな氣がした。・・・・・
車は勝鬨橋を渡り、月島の町のあひだをすぎて、さらに黎明橋を渡つた。見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを劃してゐた。海風は頬を搏つた。峻吉は、米軍施設のはづれにある滑走路の、立入禁止の札を目じるしに車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたはらには、數本のポプラが日にかがやいてゐた。(11-10)