東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
これは、万葉集 巻一(四十八)に収められている柿本人麻呂の有名な歌ですが、最近、この歌に関しておもしろい記述を発見したので、ご紹介します
それは、「この歌を詠んだのは誰か?」と聞かれたら、普通「そりゃ、柿本人麻呂でしょ」となるはずなのですが、実はそうとも言えないということなのです
どういうことか
万葉集は、万葉仮名で書かれており、この歌も、「東野炎立所見而反見為者月西渡」と漢字14字で記されているだけで、これを日本語で何と読むのか、万葉集には何の手がかりもありません
これを、「ひむがしの・・・」と読んだのは賀茂真淵であり、それまでは、「アヅマノノケブリノタテルトコロミテカヘリミスレバツキカタブキヌ」と読まれていたそうなのです。最古の記録に平安時代の最末期、元暦元年(1184年)の書写本があるそうです
結局、柿本人麻呂がこういう歌(ひむがしの・・・)を詠んだということにした()のは、人麻呂より千年以上ものちの人、江戸時代中期の賀茂真淵ということなのだそうですへぇ~
この賀茂真淵の読み方については、「大胆」だとか「無謀」だとか言われているそうなのですが、そう言われながらも真淵の読みが定着しているのは、それだけ影響力のある方だったからなのでしょう。
実際、「ひむがしの・・・」の方が力強く、いかにもこれぞ万葉集って感じがしますし
ちなみに、上記の出典は、高島俊男著「漢字雑談」(講談社現代新書)であり、高島先生が引用しているのは、白石良夫著「古語の謎」(中公新書)です。
賀茂真淵は、万葉集を中心とする古典を研究した国学者で、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」などが主な著書として知られています
その真淵の住まいは、中央区の久松町にあったそうです。現在、清洲橋通りに面して、久松町交差点の近くにあるジョナサン日本橋浜町店の壁面に賀茂真淵県居の跡を示すプレートがあります
そのプレートの説明文によると、本当の住所は、ここから北東約100メートルのあたりだそうです
近くの通りから東京スカイツリーがきれいに見えました