佃3丁目、初見橋交差点から清澄通りを相生橋に向かい、150mほど歩いたところで右に折れて少し歩くと堤防に突き当り、その堤防のすぐそばに、海水館跡の石碑と説明板があります
海水館は、明治38年に坪井半蔵によって建設された割烹旅館で、当時、月島は東京湾を臨む風光明眉な地だったそうで、ここに宮城県仙台市の建物を移築して旅館兼下宿として開業しました
閑静な地であったため、明治末期から多くの文学者が執筆場所として利用したそうです
島崎藤村は、ここで「春」を執筆し、小山内薫は「大川端」を執筆、詩人の吉井勇は、歌集「毒うつぎ」を創作し、三木露風は、詩集「白き手の猟人」をまとめたそうです
残念ながら、海水館は、大正12年の関東大震災で全焼してしまいました
この石碑が建っている場所の周辺は当時の面影もなく、明治から大正にかけて著名な文学者が、ここから房総の山々を眺めながら執筆した場所としてイメージするのはむずかしいのが現実です
ただ、違った意味で趣きがあるなあと思ったのは、石碑の間近に迫る堤防の補強壁によって区分されたスペースを利用して、さまざまな草花、盆栽、果樹等が植わっている(育てられている)風景が堤防沿いにずっと続いていたことでした
当時の面影は無くなっても、吉井勇のこの歌が、この季節と周囲の風景にぴったりでした
冬の海 見ればかなしや 新佃 海水館は わび住みにして (吉井 勇)