1997年3月27日、私の月島物語が幕を開けました。
今回は私の月島在住20年の節目にあたり、当時の月島界隈の様子を記憶に基づいてご紹介します。書きながら懐かしさで胸がいっぱいになりました。
月島・東仲通り
では、月島第一公園から。最近は元気なちびっ子で賑わっていますが、当時は中央にある小高い山から滑り台で降りるアクティブすぎる構造で、子供も少なく、木が生い茂った森のような公園でした。近くにアジの天日干し屋さんがあってその奥には、つきじ入船の工場がありました。年の瀬が近づくと朝早くから蒸気が立ち昇っていました。
近所のよしみで我が家のおせちは入船さんでした。
月島・西仲通り
1997年4月に44店が加盟して月島もんじゃ振興会が発足し、既にもんじゃ通りと呼ばれていましたが、まだ、手芸屋さん、おもちゃ屋さんなど小売店が結構がありました。警視庁最古の現役交番のお巡りさんにご挨拶するのも日課でした。今は「西仲通り地域安全センター」になり地域安全活動の拠点になっています。ちなみに当時の清澄通りは都営12号線の工事中で、大江戸線月島駅の開業は2000年12月12日のことです。
晴海
1998年に閉店しましたが、東京ホテル浦島の裏手にあった大型シーフードレストラン「ピア晴海」はバブル時代の象徴、ウオーターフロントの先駆けスポットで海に面した大きな水槽が印象的でした。その後、晴海は高層ビル街へ変貌を遂げていきました。毎年5月になるとトリトンスクエアの建設現場に何匹もの鯉のぼりが掲げられ、風に泳ぐ姿が目に焼き付いています。
(番外編)明石町1998年5月7日
hideさんのこと。X JAPANのメンバーだった彼の告別式がこの日築地本願寺で行われました。お別れに集まったファンが築地から隅田川、聖路加ガーデン沿いに長蛇の列を作りました。去年の紅白で、歌でゴジラを退治したX JAPANを見てあの時多くの若者を動かしたものは何だったんだろう、と当時を改めて思い起こしました。
さて、これから20年後に月島はどうなっているのでしょうか。月島を語るうえで不可欠な名著、「月島物語」の著者、四方田犬彦さんは1990年代の初頭にその後の10年間に起こりうると想定される月島の変貌を危惧されていましたが、それから30年弱、月島の街は時代のうねりを呑み込んで、しぶとく存在しているように私には思えます。西仲通りではまた新たな大規模再開発が始まり、2020年に向け東京自体が動きだそうとしている時代、月島がその流れに中でたとえ姿形を変えても、いつまでも生き残り、人を引き付ける街であってほしいと願っています。
参考文献:
アエラ1999.12.20、日経新聞、四方田犬彦「月島物語」集英社