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◆ 東京駅八重洲口発のバスに乗って

[隅田の花火] 2017年8月13日 09:00

土曜日の夕方の東京駅。いやぁ、今日も暑い1日だった。

これから中央区の勝どき駅に行かないといけないので、八重洲口から出ている「深川車庫前」行きのバスの乗り場を探した。

 

丸の内南口から出ているバスを使っても、勝どきに辿り着くことが出来る。しかも有楽町や銀座や築地の街並みを見ながら。でも今日は、八重洲口発の都営バスにしてみた。

 

このルートのバス停はたぶん、東京に詳しくない人だと、聞き慣れない名前が多いかもしれない。

 

   17:46 東京駅八重洲口

   17:47 通り三丁目

   17:49 八丁堀二丁目

   17:50 亀島橋

   17:51 新川

   17:54 新川二丁目

   17:55 鉄砲洲

   17:57 湊三丁目

   17:58 明石町

   18:00 聖路加病院前

   18:01 築地七丁目

   18:03 勝どき橋南詰

   18:04 勝どき駅前

 

中央区の中でも下町色の濃い、ディープなエリアを通るこのバス。本数こそ少ないが、乗るたびに違う味がしてくるので、たまに乗りたくなってしまう。列に並び、バスに乗り込んで、今日は初めてバスの一番前に陣取ってみた。

 

 

バスは東京駅から八重洲通りを真っ直ぐに、新川・佃方面へと走っていく。八重洲通りの左側が昔の日本橋区、右側が京橋区だったので、その境を走っている。

中央通りとの交差点にある『 平和の鐘』を横目に過ぎていくと、不思議な名前のバス停「通り三丁目」に停まる。

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名の由来は、八重洲通りでもなく、中央通りでもない。昔の町名「通(とおり)」から来ているらしい。

今の中央通りは江戸時代、日本橋を起点として延びていた東海道の道筋で、その東海道の最初の区間、日本橋と京橋の間の道沿いに賑った細長い町の名前が「通」。江戸時代の初めから栄えた商業地だ。

昭和48年にその町名は消えてしまったものの、バス停にその名前を残してくれている。なんとも嬉しいバス停である。

 

 

バスはビジネス街を抜け、亀島川に架かる亀島橋を渡り、新川地区に入っていく。

 

「新川」の名前は、かつて東西に流れていた運河の名前に由来するというが、今はもう、埋め立てられてしまっている。

 

今度の日曜日の深川八幡祭りでは、この辺りも55基のお神輿が巡行する。隅田川の人気のある2つの橋をお神輿が渡るので、とても好きな夏祭りだ。

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深川から清洲橋を渡ってきて、箱崎や、ここ新川地区を通り、永代橋で隅田川を渡り直して深川の富岡八幡宮へと戻っていく。特に永代橋辺りは見物人の溢れる人気エリアとなっている。

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この祭りの特徴でもある「水かけ」の風景は各所でみられ、それを見ているだけでも、この祭りにかける人々の情熱を体感でき、感動もできる夏祭りである。

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また新川地区は、昼食のための休憩タイムにあてられているエリアなので、その間、お神輿の博物館状態になる場所でもある。まじまじとお神輿自体を見物してみたい人には、良い場所かもしれない。

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さて、このまま八重洲通りを真っ直ぐに進んでいくと、「中央大橋」で隅田川を渡ることになる。しかしバスは八重洲通りをサヨナラして右に曲がる。

 

曲がったかと思えば、すぐ「新川二丁目」のバス停で停まり、発進したら目の前にある「高橋」を渡らずに左へと折れる。何だか慌ただしくなってきた。

この慌ただしさは、バスが亀島川を渡るのにわざわざ「南高橋」を選んでいるせいではないのか、という疑念を生じさせる。

 

南高橋は、この辺りの橋の中でも、粋な作りの橋だ。関東大震災の復興で架け替えられた旧両国橋の部材を使っているので、レトロ感が満載である。川を渡るのにこの橋を選ぶとは、このバスも、なかなかニクいことをしてくれるものである。

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バスは、鐵砲洲稲荷神社の前にさしかかる。バス停も「鉄砲洲」。面白い名前である。かつて隅田川の河口辺りにあった洲が、鉄砲のような細長い形をしていたから、とも言われているが、面白い名前にしては、少し理由がつまらない。

 

佃大橋の高架の下をくぐった先が明石町。やたらと「◯◯発祥の地」という、石碑やら記念碑やらの多いエリアに入っていく。

この辺りは開国後「築地居留地」として、東京の中でも新しい外国の文化が、いち早く入ってきたことがその理由だが、そもそもこの明石町という名の由来は、兵庫県の明石の浦の風景に似ていたから、という説がある。

江戸時代の人は、明石町の海の先に浮かぶ佃島を淡路島に見立てていたに違いなく、きっと綺麗な江戸の海の風景が広がっていたのだろう、と想像ができる。

 

 

『平和の橋』の下にある「聖路加病院前」のバス停で停まった。この『平和の橋』の名付け親は、先日105歳で永眠された日野原重明先生なのだそうだ。

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微かに鐘の音が聞こえてくる。聖路加病院の18時の鐘の音である。雰囲気のよい場所には、よいメロディが流れるものだ。この鐘の音とともに、日野原先生の平和への想いも、ここ明石町の空の下で受け継がれていくのであろう。

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そしてバスは、昔、小田原町と呼ばれていた街を抜けていく。この辺りを裏築地と呼ぶ人もいて、隠れた名店が多いところであるが、路地裏の道に入っていったりすると、思わぬ建築が目の前に現れたりして、ビックリする場所でもある。

 

晴海通りを左に曲がるとすぐ勝鬨橋。この橋が一番格好よく見えるのは、自分で車を運転して渡る時だと、この前運転して思った。なので今日は一番前に陣取って橋を見てみたかった。やっぱり自分で運転した時のほうが、格好良く見えたと思う。

 

橋を渡った先が勝どき。いろいろな所を巡ってきたが、意外とあっという間である。

 

 

時間があったので「勝どき橋南詰」のバス停で途中下車した。今日は隅田川の夕暮れが綺麗そうなので、勝鬨橋まで少し戻ってみようと思ったからだ。

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雲が多かったけれど、暮れていく水面を見ることができた。良い景色である。もう少し経てば、東京タワーにも明かりがついて、屋形船もたくさん現れてくる。

 

隅田川テラスにおりて、夕涼み、といきたいところだったが、駅に向かわないといけない。仕方なくこの場所を後にし、勝どき駅まで歩いて、ちょっとした小旅行を終わらすことにした。