人形町に行ってきました!
知っている人も多いかと思いますが"人形町"という正式な地名の歴史は浅いです。「人形町は、現在三丁あって、水天宮の電停から北北西の方向に堀留町にいたる都電路線の両側を占めており、正しい町名としては、昭和八年住吉町、堺町、新和泉町、芳町、元大阪町、蛎殻町、松島町の一部をまとめて起立されたのである。しかし水天宮とともに、人形町の呼び名は、ふるくから有名であった」『中央区史』より
水天宮前交差点よりの水天宮(安産と水難にご利益があるといわれ、戌の日には多くの参拝者で賑わいます)
そして、人形町の発展に大きな要因となったのは明治5年に蛎殻町の有馬候中屋敷に芝赤羽橋有馬候上屋敷から水天宮が移ってきたことにある。そして水天宮の門前町として発展していったのである。
「毎月一日・五日・十五日・戌の日に月次祭を行うが、初水天宮・例大祭(五月五日)・戌の年戌の日には遠近より来り詣でる人々多く繁華雑踏を呈するが、その繁昌ぶりは他にその比を見ないといわれる。神楽七十五座や地元有志の余興が奉納され、境内外には縁日がところ狭しと立ちならび、参詣者陸続としてつづく盛況は都下の一異観であった」『中央区史』より
しかし大正震災の後は各地に新興商店街が誕生し、発展したり百貨店の繁栄が人形町を衰退させていた。戦後においても、一般的に社寺は振るわなかったため、水天宮も同じく現代のような注目されることはなかったのです。
さて、時代の移り変わって2017年人形町は素晴らしい街へと変貌しました。
地下鉄日比谷線のA1・A2出口から地上に上がると人形町通りを挟んで2台のからくり時計が訪問者を迎えてくれます。
人形町と言えば、甘酒横丁、蛎殻銀座跡、西郷隆盛屋敷跡、谷崎潤一郎生誕の地、日本橋七福神、玄次店などが有名ですね。今回は水天宮前交差点から甘酒横丁交差点までにスポットを当てて街歩きしてきました。
水天宮交差点は三原堂本店と重盛永信堂が人形町通りを挟んで立っております。重盛の人形焼き・ゼイタク煎餅は人形町土産としてとても有名です。三原堂のどら焼き・豆大福もとても人気がありますが、私が個人的にお薦めするのは塩せんべいです。絶妙な味付けで後を引きます。人形町通りをそのまま甘酒横丁方面に進み、右手からニッキの香りが漂ってきたら、寿堂に到着です。ニッキの香りの黄金芋は人形町の名物です。そのまま道なりに進むと右手に玉英堂があります。玉英堂のとらやきが有名ですが、私は"玉饅"をお薦めしたいです。饅頭が5層からできていて見た目も楽しめて程よい甘さがとてもよいのです。また玉英堂の現在立っている地に"尾張屋"という甘酒屋があったことが甘酒横丁に由来することも有名です。
三原堂本店 | 重盛永信堂 | 寿堂 | 玉英堂 |
その玉英堂を右折すると甘酒横丁です。甘酒横丁を直進すると明治座へと繋がっています。この甘酒横丁には、つづら店や三味線・ばちなどなどを扱う楽器店などの老舗がいくつもあります。また甘酒横丁を右折して少し進んだ右手には
鯛焼きで有名な柳屋もあります。しかし今回は右折しないで左折してみることにしました。
するとすぐ目に入ってくるのが、"谷崎潤一郎生誕の地"の石碑です。谷崎潤一郎は、明治19年この地にあった祖父の家、谷崎活版所に生まれたそうです。なおこの石碑の書は谷崎潤一郎夫人の松子さんによるとのことです。
その先にあるのは日本橋小学校です。現在リノベーション工事中でした。ここは西郷隆盛屋敷跡として有名です。江戸時代にはこの地は姫路藩酒井家の下屋敷となっていました。また、明治6年の沽券図には「蛎殻町一丁目壹番 二千六百三十三坪 金千五百八十六円 西郷隆盛」との記載が残っています。
西郷隆盛はこの地には明治4年より明治6年までの2年間のみの滞在となります。明治六年の政変にて鹿児島へと戻り、明治10年西南戦争を起こして自害をすることになるのです。
また、人形町にはこんな路地が残っていて下町情緒を感じられます。
最後に日本橋七福神の二社を紹介して今回のブログを終了しようと思います。
茶ノ木神社 松島神社
茶ノ木神社 「この地には下総国佐倉藩堀田家の中屋敷があり、その守護神として祭神を祀った。神社の周囲にぐるり植え込まれた茶ノ木が、名称の由来と伝わる」『中央区物知り百科』より(日本橋七福神の布袋尊)
松島神社「松島町にあり、創祀の年月は元享以前と伝えられ、神霊は天正十三年吉見兼見の勧請するところであるという。保食神を祀る、住吉この辺が海洲であったころ、海中に松樹ある小島があった。島の祠を俗に松島稲荷と称したのだという。正徳三年この地が町地になった際、とって町名とした」『中央区史』より また松島神社は毎年酉の市が開催されることでも有名であり、社はビル1階部分に組み込まれています。(日本橋七福神の大国神)
今回は人形町の一部分にスポットを当てブログを書きましたが、まだまだ人形町の魅力について書ききれておりません。今回触れることができなかった、蛎殻銀座跡や大門通などについても別の回にて記載してみたいと思ってます。
それにしても、人形町は歴史・文化においてとても内容の深い街でした。