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「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (2)

[CAM] 2017年9月 5日 18:00

二.「江戸」の成り立ちと範囲

こうして、日本橋地区からさらに現中央区の歴史に触れていくうちに、今まで不勉強であった「江戸」の成り立ちなども知るようになった。現東京都中央区の前身である日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのは明治11年(1878)であるが、その直前に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、そこには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸区・南江戸区の名がある。つまり、原案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区と称しようとしたものらしい。『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いているが、このような考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。なお、中央区成立の際(1947年)にも、新区名を「江戸区」「大江戸区」とする案も有力であったという。

そもそも、「江戸」の語源は「江処」であると考えるのが妥当ではないか。「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東部の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、"江処"というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、そして、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657)の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、旧日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。

したがって、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南の境界は新橋川であった。 この新橋川に架かる難波橋は、江戸を追放される者の放逐個所となっていた。そして、新橋川を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。さらに、本郷の近くにある小橋も、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたが、その本郷の別れの橋の近くに"も"、兼康の支店があった。 池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の"も"はそういう意味だと言う(『日本橋私記』1972年)。たしかに、池田氏のように解することによって、"も"という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、元来は、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えをよく理解できる。

池田弥三郎氏は「おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・

江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって・・・・・」と述べている(『日本橋私記』)。

「江戸の範囲」についての幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄区域)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際は、どの時点、どの段階での話なのかを明示する必要があろう。しかるに、「江戸時代」とひとくくりにして論じたり、時代初期の事象についてであるにもかかわらず、朱引による領域を当然の前提であるが如くに述べたり、江戸時代後期における社会状況を時代全体についてのもののように語る文章があるが、徳川幕府が成立し(1603)大政奉還される(1867)までの間でも260年以上に及んでいる。これは、アメリカ独立宣言(1776)から現在までの期間(240年)よりも長いのである。

(続く)