娘さんの横顔を描いた「麗子像」で有名な岸田劉生の実家は、銀座2丁目の銀座中央通りに面したところにありました。現在、地下にメルサの入っている銀座貿易ビルの南半分、地上に花店のある場所になります。地下鉄有楽町線・銀座1丁目駅9番出口すぐですね。
父親の岸田吟香は、明治期にジャーナリスト・実業家として大変活躍した方です!その様子をご紹介いたします。
活躍その①幕末、眼病を患った吟香は、横浜の医師ヘボン博士を訪ねます。ヘボン博士は、今私たちの使っているパスポートの名前のローマ字表記の元を作った人ですが、そこで吟香は、ヘボン博士と共に日本で初めての本格的な和英辞書「和英語林集成」を編纂します!辞書の名前も吟香の命名だとも言われています!!
活躍その②東京日日新聞、現在の毎日新聞で日本で初めての従軍記者として台湾に赴き、その従軍記が大評判になっています!
活躍その③ヘボン博士から編纂手伝いのお礼に与えられた目薬の処方箋で、明治11年に薬屋「楽善堂」を開き、目薬「精錡水」を販売。大ヒットします!家屋の構造上、すすが屋内に溜まり、眼病を患う人が多かった日本にとって大変画期的な目薬でした。それまでは、軟膏で、水タイプの薬は初めてだったからです。
活躍その④吟香は、薬の広告を日本で初めて新聞に出します。新聞に公告を載せれば、売り上げが上がることに着目した日本で初めての人なんですね!!
活躍その⑤吟香は、今で言う福祉事業にとりかかります。楽善堂の楽善をとって明治13年に「楽善会訓盲唖院」を開き、盲人教育にあたっています!!それは、今現在、日本で唯一の国立盲学校「筑波大学付属視覚特別支援学校」に引き継がれています。建設された場所は、現在の築地場外市場近くで、公園内に碑があります。ちなみに、建物の設計は、お雇い外国人として来日、活躍したジョサイア・コンドルでした。
岸田劉生は、このように活躍した吟香の四男として明治24年に生まれています。
昭和4年に銀座を懐古したエッセイ「新古細句銀座通」で、「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までをそこで育って来た」と書き出しています。
当時の銀座中央通りは、明治15年に新橋から日本橋で開通した日本で初めての私鉄・馬車鉄道が走っていました。
岸田吟香は、明治38年に72歳でその生涯を閉じています。