普段訪れる事の少ない、茅場町と新川付近を散歩してきました。 静かな佇まいの地域で、お散歩には最適です。
コース:東京メトロ東西線八丁堀駅3番出口から。お散歩の時間:茅場町周遊で1時間。全体なら約1時間半
1)河村瑞賢屋敷跡:所在地 中央区新川1-8、「ホテルヴィラフォンテーヌ茅場町」の前の道の植栽にあります。
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618~1699)の屋敷がありました。
瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦3年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。
斎藤月岑(さとうげっしん)の「武功年表」によると、瑞賢は貞享年間(1684~1688)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
「御府内沿革図書」延宝年間(1673~1681)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます
次は道なりに進んで、隣接のアクロス新川ビルを右折、次の角をまた右折して、新川大神宮へ。
2)新川大神宮:
境内に掲示された「新川大神宮再建由誌」によれば、
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧・慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』ならびに江戸名所図会に詳しい。当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川2代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのにはじまり、其後、明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年、替地を霊巌島に賜り社殿を造営、以来実に300年を経た。爾来当地は河村瑞軒が隅田川に通じる水路を開いて舟楫の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を集め、とくに酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くと、これが初穂を神前に献じ、然る後はじめて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(1945)3月9日の戦災に罹り社殿を烏有に帰した。その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を回復しつつあるのはまったく当宮御神威の賜ものである。
偶々昭和27年(1952)が講和条約発効独立回復の年にあたる故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮ならびに例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。
ここに当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。 昭和27年10月17日
新川大神宮のHPはこちらです。 http://shinkawadaijingu.or.jp/
次は今来た道をアクロス新川ビルの角まで戻って右折・南下。越前堀跡(越前堀公園)へ。
3)越前堀跡(越前堀公園):所在地 中央区新川1・2丁目地域
滑り台の向こうに、「霊巌島之碑」と「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)の説明碑があります。
「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)によると、
江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。
今では往時をしのぶ「霊岸島」や「越前堀」の名は、歴史でしか学ぶことができません。
写真の左手に越前堀公園が、正面奥に見えるのが明正小学校の建物です。
次は隣接する明正小学校の建物を拝見しましょう。
4)明正小学校、
平成28年に創立90周年を迎えた、大変由緒ある小学校です。
昭和2年(西暦1927年)3月1日に、霊岸島(明治9年9月1日創立)、越前堀(明治42年1月8日創立)の両尋常小学校を合併し、新たに東京市明正尋常小学校として開校されたとのことです。<中略> 平成26年9月1日に新校舎での教育活動が再開されました。
建築は、複合施設となっており、児童館も入っています。 高級マンションの様な大変素敵な設計です。 明正小学校等複合施設基本計画の概要、「その他」の所に、『現校舎の意匠を外観デザインとして継承するとともに、部材の利活用を図る。機能を充実した新川児童館を併設する。』 と記載されています。その詳細は、こちらのHPに書かれていますので、ご参考にして下さい。
https://www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kaitiku/meishokaichikukeikaku.files/meisyokaichikukyogikai.pdf#search=%27%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA+%E6%98%8E%E6%AD%A3%27
http://fkaidofudo.exblog.jp/10731739/
5)亀島橋
橋の袂には、「亀島橋」、御船手組(将監河岸)、河村瑞賢の説明のパネルが設置されています。
橋を渡った右手の植栽の中に、「堀部安兵衛武庸之碑」が建っています。
橋の反対側(南側)には、東洲斎写楽、伊能忠敬についての説明のパネルが設置されています。
右折して、亀島川を北上して、新亀島橋へ向かいます。
6)新亀島橋
①「正一位 純子稲荷大明神」が鎮座されています。
御鎮座は、元和二年11月20日。
神璽は伏見稲荷大社、御神名は「純子大神」御祭神は豊受大神、宇賀之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四之大神とあります。
御神徳が精神、生命、生活、生業、生産、心身健全、御神意が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、芸能成就、往来安全とあります。 まさに、All right. 御祭日は、二月の初午の碑、4月、11月御鎮座の日、元文2年(西暦1737年)11月20日です。 町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請して、お祀したと言われています。
純子大神と名付けられた経緯は、継続して調べることにします。
②大震火災遭難者追悼碑、戦災遭難使者慰霊碑が新亀島橋西詰めに設置されています。
大震災、戦災で亡くなった方々のご冥福を祈りました。
道なりに亀島川河畔を真っ直ぐ進み、台南茶寮という中華料理屋さんを左折して、少し南下します。
7)地図御用所跡の碑:
亀島橋の南側にも、伊能忠敬先生についての説明がありましたが、ここに伊能忠敬先生が住んでいらっしゃったこと、測量図を作製するための地図御用所として利用されていたことが説明されています。
ここまでで1時間の周遊コースです。茅場町駅へはスマイルホテルの前を通るのが近道です。
8)鳥居稲荷神社:茅場町3丁目20
こちらは、鳥居丹波守忠瞭(下野壬生藩主)の上屋敷があり、その邸内社であったとの由来が説明されています。
朱の鳥居がとても鮮やかで、崇敬されていらっしゃる方の熱意が伝わってきます。
すこし北に行き、センターホテルの前を通過し、坂本小学校横、警視庁中央警察署の向かい側、千代田橋の手前に、大原稲荷神社が鎮座されています。
9)大原稲荷神社:
立派な社殿の裏には、御神木と思われる大銀杏がそびえています。私は、毎年東京マラソンの度に、参拝しています。 若い人たちは、パワースポットとして、元気を頂くためにお参りしているそうです。
この地は日本橋川から楓川に通ずる運河要衝の地であったことから海運の神様、藤間流宗家在住の地であったことから芸能の神様として信仰されてきたようです。(藤間流は、藤間勘兵衞によって始められた。 勘兵衛は 能の狂言師で, 宝永年間に江戸へ出て 日本橋で踊りの師匠となり, 歌舞伎の振付師に取立てられたと伝えられる。)
左横から入る、裏の境内の銀杏は火災にあって被災していますが、逞しい生命力を感じます。また、神様のお使いである狛犬は、虎か豹の様な姿をしていました。
大原稲荷神社の社務所は隣のビルの7階にあるようですが、土曜日はドアが閉まっていました。
詳しく知りたい方は、社務所を訪れてはお聞きになっては如何でしょうか。
さて、喉が渇いたし、お腹も空いてきました。 近辺には、手頃で良心的なお店が沢山あります。 その情報は、別途掲載します。 それでは、ごきげんよう! 20170805