「外郎(ういろう)」とは何でしょうか。関東の人は、小田原の「ういろう」が歴史的には知られているものの、「羊羹(ようかん)のような食べ物?」「何かの薬の名前?」という具合で、いまだに漠然としています。 それもそのはずで、小田原の外郎家(ういろうけ)は、代々同じ名前をもつお菓子と薬を今も作り続けています。外郎は商品名であり、姓でもありました。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のなかでは、弥次喜多は薬の外郎を菓子の外郎と勘違いして食べ、苦い顔をする場面がある。この外郎こそ、小田原の外郎である。『外郎は、菓子か、それとも妙薬か』──両方とも正解である。
歌舞伎ファンなら外郎と聞いて、市川団十郎の歌舞伎十八番の一つ、『外郎売』がまっ先に頭に浮かぶでしょう。こちらは薬の外郎で、相州(神奈川県)小田原の名産。江戸時代、この薬を世に知らしめたのは、まさにこの歌舞伎の演目『外郎売』だった。二代目市川団十郎が咳(せき)と痰(たん)の病で台詞(せりふ)を上手く言えず、舞台に立てなくて困っていたときに、外郎を服用して全快し、再び舞台に復帰できたという。こういう良薬を人々に知らせたいと、外郎家の承諾を得て団十郎自作自演の『外郎売』が出来上がり、享保3年(1718)、木挽町(中央区銀座、歌舞伎座裏付近)の森田座で初演された。 この演目は大当たりして、後に七代団十郎が「歌舞伎十八番」に名を連ねることになりました。外郎売の口上は現代のコマーシャルに相当します。
『外郎売』が今も有名なのは、その口上にあります。咳や痰の病気を治したということだけあって、すらすらしゃべり立てる早口言葉の連発です。その一部を紹介すると、
『...武具馬具ぶぐばぐ三ぶぐばぐ、合わせて武具馬具六ぶぐばぐ。菊栗きくくり三きくくり、合わせて菊栗六きくくり。麦ごみむぎごみ三むぎごみ、合わせてむぎごみ六むぎごみ。あのなげしの長薙刀(ながなぎなた)は誰(た)が長薙刀ぞ。...』。という具合で、誰もがどこかで聞いたことのある台詞です。外郎売の口上は、現在では、俳優・タレント、アナウンサーの養成所などで発声練習の教材として使われています。
小田原の外郎本家の屋敷。なかなかの建築です。
「外郎」と書いてなぜ「ういろう」と読むのでしょうか。外郎家の祖先に、中国の元の時代に「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」という官職に就いていた陳延祐(ちんえんゆう)という人物がいました。元が明に滅ぼされたのを機に、九州の博多に亡命し、陳外郎(ちんういろう)と名乗ったという。「外」は、元の時代の発音である"唐"音では「うい」であったためで、自然な成り行きとも言えます。これが「ういろう」の由来で、中国の官職の名前が薬や菓子の名前となりました。その子である外郎家二代目の宗奇(そうき)は、足利義満(室町幕府三代将軍)に京都に招かれ、中国(明)から薬を伝えるとともに、接待用の菓子も考案し、朝廷や公家・武家の要望に応えたといいます。薬は「透頂香(とうちんこう)」という名前を時の天皇から賜ったが、外郎家がつくることから、巷では薬も菓子も外郎(ういろう)と呼ばれようになった。 五代目の藤右衛門(とうえもん)は家業を弟に任せ、16世紀初頭関東で勢力を誇った北条早雲に招かれ小田原に移った。その理由は不明であるが、戦国武将たちは携帯できる「外郎」のような常備薬を必要としたのかもしない。京都の外郎家は天正年間(1573?1592)に途絶えたが、小田原の外郎家は残り、現在に続いている。全国にある菓子の外郎の多くは、京都の外郎家に仕えていた職人たちによって広まりました。
薬の外郎は銀色をした小さな粒状の丸薬である。痰をきり、口内清涼や消臭によいとされる大衆薬であり、江戸時代の人々にとっては万能薬だったようだ。仁丹に似ている外郎は、東海道・小田原宿の名物として知られ、携帯に便利な道中薬として多くの旅人が買い求めた。土産にも人気の高い、江戸時代に大ヒットした薬であるが、江戸では両国横山町(現中央区日本橋横山町)にあった太和屋加兵衛の店で買えたらしい。江戸の外郎売店として有名であったが残念ながら、今は横山町には店は見えない。
団十郎の外郎売の口上をYoutubeで見ることができるので、次のURLにアクセスして是非聞いてみてください。滑らかな"口"さばきをご鑑賞あれ!私にはできない!
https://www.youtube.com/watch?v=zjrZMhRTg78