中央区銀座にある歌舞伎座には、その2階、3階にお食事処があります。歌舞伎のに幕間に食事をすることができ、幕の内弁当の他、お寿司などのメニューが取り揃えられています(※観劇日2日前までの予約が必要です)。
そして、3階のお食事処「花篭」は、各種イベントスペースとしても利用されています。今回は、9月28日(木)に行われた歌舞伎座とちくま大学(筑摩書房)とのコラボセミナーに参加してまいりましたので、その内容を簡単にお伝えします。
タイトルは「下級武士の食日記」。
江戸時代に紀州和歌山藩の勤番侍(単身赴任の武士)である酒井伴四郎が詳細に残した日記をもとに、ドラマの時代考証などでおなじみの青木直己先生が講師となって「江戸の驚きの食生活」について解説していただきました。
「食は江戸一、大坂二、京三」と言われるように、参勤交代などで全国各地から食材や料理法が集まった江戸の食べ物が一番おいしく、現在世界的に注目の"和食"は、江戸で完成したと言ってもよいようです。豊かな江戸湾のおかげで、海産物の漁獲量も日本一だったそうです。
さらにインフラ整備や火事の多さから、全国から職人も集まり、人口100万人を超える大都市となった江戸の胃袋を支えるため、近郊に野菜の産地が生まれ、流通システムも効率化されていきました。練馬・亀戸の大根、小松川の小松菜、千住・砂村・大井の葱、谷中の生姜、目黒の竹の子、府中・砂村のまくわ瓜、等々‥‥。
そのほか、以下のような江戸時代の食にまつわるさまざまな知識も教えていただきました。(上の写真は青木先生の著書)
●単身赴任の下級武士は2、3人で一緒に生活していた。
●「二八そば」はやはり元々は値段の十六文を洒落て「二八の十六」と言ったところから始まった。そのほか、二七そば、二九そば、三七そば、三八そばがあったが、末広がりで縁起の良い八が好まれ、二八と三八(二十四文)が一般的。そば粉とつなぎの配合比で言われ始めたのは幕末になってから。江戸でそばが流行ったのは玉川上水に多くの水車があり、そこで大量のそばを粉に挽くことができたことが大きい。
●酒はほとんどの場合、お燗にして飲んでいた。お銚子(とっくり)を使うのは幕末以降で、それまでは"ちろり"(金属製)でお燗していた。人が集まれば、まず酒を酌み交わすのが当たり前だった。
●脚付き膳は食事用で、酒宴の席では脚なしの膳(お盆)を使っていた。
●獣肉(豚、猪、鹿など)も結構身近な存在だった。露店でも肉を売っていた。「薬食い(やくぐい)」といって、"獣じゃなく薬を食べているんだ"と言っていた。
●カツオはニンニクや生姜ではなく、からしで食べていた。
●江戸城に上る武士はほとんど弁当持ちで、外食はしなかった。武士が外食するときは手ぬぐいや頭巾で顔を隠していた。
●町人でも上層の人たちは外食は少なかったようだ。
●天麩羅は家庭で揚げるのはご法度だった(火事になるから)。屋台で売っていた。
●油の普及で夜の食事が一般的になった(灯が取れるようになったことで)。
●お茶は男のたしなみだった。
●店では座敷に上がるか、縁側に腰掛けるかして飲食していた。時代劇でよく目にするようなテーブルと樽桶の椅子はなかった。
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そして、講義の後は食事の時間です。幕末の江戸で食べられていた下級武士の食事の一部を再現した料理をいただきました。この料理は、青木先生指導の下、花篭でこの日のためにわざわざ特別に作っていただいたものです(右写真)。
歌舞伎座の館内お食事処「花篭」では、毎月さまざまなイベント・勉強会を開催しています。お食事処だけに、イベントには食事やお土産等が付き、満足度の高いイベントが多いようです。
また、花籠は、会議・セミナー・懇親会・各種パーティなどのスペースとして、一般の方のご利用もできるということです。