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◆中央区 ここに歴史あり(68) 吉良上野介義央を治療した栗崎道有

[巻渕彰/写楽さい] 2017年12月 8日 09:00

年末になると元禄忠臣蔵に話題が集まる。江戸城内での刃傷事件(赤穂事件)で、浅野内匠頭長矩に斬りつけられた高家の吉良上野介義央を治療したのは外科医の栗崎道有といわれている。翌年、吉良義央は赤穂浪士らに討ち取られた。いま、この二人は同じ寺に葬られている。道有の屋敷は八丁堀にあったのだろうか。

   

0913_68_1712051yasiki.jpg栗崎道有(くりさき・どうう=万治3年(1660)~享保11年(1726))は、江戸中期の外科医。長崎系栗崎流の医家。伯父・正勝(2代道喜)の高弟鳥飼道節について栗崎流外科を全うし、幕府に召されて官医となる。道有を襲名、以後子孫は代々この名を襲名し、栗崎流は楢林、吉雄の両家と共に長崎外科の三家と称された。元禄14年(1701)、吉良上野介義央の殿中刃傷事件の際、応急の手当てをしたことで知られる。(『朝日日本歴史人物事典』から)

    

代々栗崎道有を襲名した拝領屋敷は八丁堀長沢町にあったとされる。江戸後期の切絵図復元図(添付図)には「外科医栗崎道有」とある。現在地は八丁堀3丁目で、新大橋通りと鍛冶橋通りの交差点付近である。


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吉良上野介義央墓(写真左)と栗崎道有墓(写真右)は、おなじ曹洞宗萬昌院功運寺(中野区上高田4-14-1)にある。同寺はもともと永田町にあり、市谷を経て、大正2年(1913)現在地に移った。吉良家の菩提寺で4代にわたる墓石がある。墓前には「吉良邸討死忠臣墓誌」があり、吉良義央とともに亡くなった家臣たちの死は「元禄15年12月15日討死」と刻まれている。@巻渕彰