昨年日本橋本石町の長崎屋(阿蘭陀館)についてシリーズで報告しましたが、今回番外編として鉄砲洲船松町へ移転した以降~御家没落までの過程を記述します。
安政5年7月1日(1858年)、日蘭修好条約が締結され、長崎出島のオランダ商館長の江戸参府の行事も廃止さましれた。10月になって、長崎奉行所は長崎で購入した蘭書を江戸へ廻漕し、江戸本石町の長崎屋を「蕃書取扱所」として、すべての蘭書に押印しました。この印章の写しは、町年寄「舘市右衛門」(日本橋本町)を通して、通二丁目の書物問屋「佐兵衛」他1名に伝達されました。
長崎屋11代目当主 長崎屋(江原)源右衛門は思案して、長崎奉行所に願書を提出しました。『これまでオランダ宿その他長崎表御用商を務めてきましたが、たびたびの火事に類焼し、難渋しておりますので、今までの住居の本石町3丁目の場所を人に貸して収入を得て、深川でも本所でもどこか河岸付の便利な場所を得て転宅したいと思いますので、どうかお許しを得たい』
長崎役所はこの願書を受理し、かけあってみようということとなりました。武家地なのでいろいろと問題が発生するかもしれないが、築地河岸の船着き便利な場所である船松町を候補に検討してみようということとなりました。従来の人参座(薬用人参の販売)・新規の御用"藩書取捌"を行う役所向け建物を建設するということで可否を伺えることになったのです。
長崎屋は町人ではあるが、「御用達町人同様の取り扱い」にすることが出来るなら許可しようということで、付箋付きで許可が得られました。
現在の地図で場所を示すと、以下のように聖路加病院裏になります。
明治初年に東京運上所(水炊き 治作脇)が使用していたと思われる洋書が発見されました。
明治元年(1868)7月、鉄砲洲に置かれていた外国事務局が「長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けます。その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていました。この長崎会所とは「江戸長崎会所」のことで、万延元年(1860)に、江戸の船松町二丁目(現中央区明石町 6~7 番地隅田川沿)で「蕃書」(=洋書)や西洋銃の売り捌きそのほか長崎会所の御用達を務めていた長崎屋(江原)源右衛門宅を指しています。
源右衛門宅は鉄砲洲船松町2丁目はずれ、細川若狭守屋敷北隣の河岸添地でした。長崎屋は新たに輸入小銃の売り捌きにも当ることになり、商売が繁盛して景気が良く新しい事業にも乗り出しました。新材木町の丁字屋仁平と手を組んで生糸貿易に一役買いました。船松町から南飯田町続きの埋め立て地に引っ越しましたが、安政条約締結の結果、東京を開市せざるを得ず、築地に居留地を作ることなりました。そのため源右衛門の土地は引き払わざるを得なくなりました。その後、本所小梅の裏長屋に引っ越し、明治8年8月5日5人の子女を残して没しました。鎖国を継続した江戸時代海外との門戸を開くことに大いに貢献した長崎屋でしたが、最後は思いがけない結果となりました。今は江原姓を名乗る人はいません。
参考文献:
切絵図考証(21) 安藤菊二著 郷土室だより(中央区立 京橋図書館) 1982.01.15