皆さんも東堀留川を知っていると思いますが、もともと石神井川の河口部であったそうです。
「上流からの流れを失った旧石神井河口部は、あらためて伊勢町堀(西堀留川)と堀江町入堀(東堀留川)に整備されて日本橋川につながる河岸地として、舟運の中心的役割を果たすことになります。」『中央区立京橋図書館 郷土室だより 第156号より』
私はてっきり日本橋川から江戸の荷上場として堀り進められた堀だと思っていました。
今回はそんな東堀留川跡を歩いてみようという企画です。
こちらの案内板は小舟町町1丁目にある西堀留川跡の案内板です。東堀留川は案内板の右の川となります。東堀留川には日本橋川から思案橋・親父橋・萬橋と三つの橋がありました。残念ながら昭和24年に埋め立てられ,今はこれらの橋を見ることはできません。思案橋と言えば江戸時代初期に遊郭に行くか劇場に行くか迷って思案したことから思案橋と呼ばれるようになったと言われています。下の写真は大正初期の思案橋の写真です。
〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉
日本橋川の接続地には現在でも水門が残っていました。この部分は小網町児童遊園になっていてこの公園の中に公衆便所があるのだが、この辺が思案橋のあった所となる。右の写真の路地の曲がり具合は上記の地図の東堀留川の屈曲具合にピッタリマッチします。
この路地に面した建物には、現代風にアレンジされた「倉庫建築」が今でも見受けられます。
かつて東堀留川があったころ、この付近にはたくさんの倉庫群があったことでしょう。
私的には「江戸名所図会」の"堀留"の図会が頭に浮かんできました。
そして、親父付近となります。東堀留川は写真手前から交差点の赤信号の方角に伸びていたことになります。そしてこちらの写真も大正初期の親父橋の写真となります。当たり前ですが2階建ての建物しか、確認できません。
「庄司甚右衛門 略 甚右衛門が町奉行所に召出された折々、本多佐渡守はじめ列席の面々皆親父・親父と呼んだので、人々もまた聞き伝えて親父と呼び、寛永五年十一月のころ、甚右衛門の発議で江戸方面から吉原へ渡る橋を架けた際、人これを呼んで親父橋と称した」『中央区史』より
思案橋、親父橋共に、橋に名称が元吉原に関係していたのですね。現在でも中央区日本橋として人の往来は見受けられますが、江戸初期はたくさんの人の往来があった橋だったことでしょう。
〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉
そして、赤信号の交差点を直進すると堀留児童公園へと繋がります。
東堀留川の川幅はこの公園とほぼ一緒ぐらいあったと言われています。
現在この公園の地下には災害対策用応急給水槽が埋められているようです。そして公園の先には日本橋保健センターがあります。日本橋保健センターは、東堀留川跡の上に建てられているのですが、建物の一部分がピロティになっていて、まるで川の流れを残したような構造となっていました。また、ピロティの壁面には3枚のタイル壁画がありました。
これは、もしかして東堀留川にあった思案橋、親父橋、萬橋かなと思い、図書館で調べたり、日本橋保健センターに電話してお伺いしたりしたのですが結局はっきりしたことはわかりませんでした。(日本橋保健センターのスタッフの方にはお仕事中にいろいろ調べて頂きありがとうございました。)
恐らく、日本橋今昔の壁画だろうと思います。詳細をご存じ方はご教授頂ければ幸いです。
そして、日本橋保健センターの隣にスーパーホテルというホテルが建っています。そのホテルのエントランスの植え込み部分にホテル建設中に見つかった東堀留川の船着石積の一部がありました。私の個人的な意見ですが、もうちょっと目立つところにもっと大きな案内板をつけてもらいたいと切に感じました。普通に歩いていたら、まず気付く人はいないでしょう。このホテルと日本橋保健センターの前あたりが萬橋のあったところとなります。そしてこの先の日本橋消防署堀留出張所前で"堀留め"となります。もちろん住所も中央区日本橋堀留町となります。
小網児童遊園から日本橋消防署堀留出張所手前までが東堀留川跡になります。
あっという間の短い距離でしたが、旧東堀留川跡にはかつてそこに間違いなく川があったことを感じさせてくれる街歩きとなりました。