こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
今回は前回に引き続き、中央区外で区の歴史を知ることのできる遠足シリーズです。
第2弾の舞台は長崎市のグラバー園。
そこで思いがけなく出会った中央区ゆかりのものをご紹介します。
早速ですが、今回フォーカスするゆかりのものとは...こちら!
写真に答えが写っていますが、「自働電話」と呼ばれるものです
現代の電話ボックスと異なり、お洒落で西洋風ですよね
一瞬、「西洋の影響が色濃く残る長崎ならではの光景なのでは?」と思いましたが、
よくよく見てみると、
「明治33年東京・京橋のたもとにわが国最初に設置したものを復元しました」
と書かれているではありませんか
気になって当時の写真を探してみると、ありましたありました!
まだ高層ビルのない京橋に佇む趣のある自働電話ボックス
(逓信総合博物館 所蔵)
当時の電話機は、アメリカで用いられた名称「オートマチック・テレホン」を直訳し、
「自働電話」と名付けられましたが、公衆電話と同一のものです。
1通話時の市内通話料(15銭)を2年後に5銭に下げたところ、利用者が増え、普及!
ちなみに普及し始めた1902年。中央区では資生堂パーラーがオープンしています
当時の理髪料が1通話時の通話料と同じ5銭であったのに対し、パーラーのアイスクリームソーダは1杯25銭だったそうで、
非常に高価な飲み物だったことを再確認することができます
さて、話を戻しまして、ここで簡単に公衆電話の歴史を振り返ってみます
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1900年9月 それまで電信支局や郵便局内にしかなかった公衆電話が、上野・新橋両駅
構内に設置される。
1990年10月 初の屋外用公衆電話ボックスが京橋のたもとに設置される。
(その後の詳細は、NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」をご覧ください。)
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日本初の常設エスカレーターが三越日本橋新館に設置されたことは、
中央区観光検定の勉強をしていて知りましたが、
公衆電話が初めて街頭に進出したのもここ中央区だったのですね
復元ではありますが、記念に自働電話ボックス内に入ってみようと
ボックスに馴染んだこの取っ手を引くと、
内部は現代のものとさほど変わりのない広さになっていました。
現代のもののように上から下まで透明ではないので、視界はやや制限されますが、
導入されたばかりの自働電話から電話をかける人の気分を味わうことができました
広島市、長崎市と2記事通して遠足シリーズをお送りしましたが、
区外で発見できる中央区の魅力や関連史はきっとまだまだあるはずです。
出先で中央区に関する史跡を探してみるのもなかなか楽しいですよ