先日(5月27日)、このブログでご紹介した「川と掘割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩」(岡本哲志著、PHP新書)を読んで、かつて存在した楓川に興味を抱き、旧・楓川沿いを歩いてみました
楓川は、日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川・八丁堀(桜川)合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2キロメートル の河川でしたが、1960年(昭和35年)から1965年(昭和40年)にかけて埋め立てられて、現在は首都高速道路都心環状線がその跡を通っています
下の地図、黄色の部分がかつて楓川が流れていたところです
そのスタート地点(A)は、かつて兜橋があったところ
下の写真は、兜神社前から兜橋が架かっていたであろう場所の眺めです
兜神社です
境内には、前九年の役で、源義家が立ち寄って戦勝を祈願したと伝えられる兜岩があります
これが兜町の町名の由来となりました
(B)は、海運橋の架かっていたところです
江戸初期は髙橋、後に海賊橋・将監橋と称されたとのこと
明治元年(1868年)、「開運」と掛けて海運橋と改称されました
現在は、2基の親柱のみが残されています
千代田橋(C)は、永代通りが楓川を渡るのに架けられた橋です
大原稲荷神社(D)は、千代田橋の南側、歩いてすぐのところに、高速道路を背にして祀られています
新場橋(E)です
中之橋、楓橋の別称もあったとのことで、延宝2年、西側に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸()として新肴場(新肴場河岸)が設置され、新場と略されたそうです
新場橋の橋上から北側の高速道路を眺めると、高架から楓川の川底に向かって道路が下って来ているのがよくわかります
新場橋のすぐそば、さくら通りからちょっと入ったところにある鳥居稲荷神社(F)です
静かな場所に建っていて、「正一位」の文字が印象的です
〔楓川跡を歩く(2)に続きます。〕