箱崎川は、日本橋中洲から日本橋川までの本流1.06kmと日本橋中洲と日本橋箱崎町の間に流れる支川0.12kmからなりたっていました。そして昭和46年に本流が昭和47年に支川が埋め立てられ消滅しました。この際に日本橋箱崎町と日本橋中洲が日本橋蛎殻町、日本橋浜町と初めて陸続きとなりました。因みに日本橋中洲には「丁目」の設定がない単独町名となっています。その埋め立て地には首都高速道路と東京シティーエアーターミナルが建てられています。
その箱崎川跡を歩いてみようというのが今回の企画です。
スタート地点は、清洲橋の少し上流地点となります。現在でも水門が残されていました。
隅田川テラスから降りると、そこはあやめ第二公園でした。あやめの名前も、箱崎川の菖蒲橋からきています。右の写真は箱崎川の護岸跡だと思われます。護岸が右にカーブしていますが、この地が中洲の先端だった地です。
「写真提供:中央区立京橋図書館」
手前の橋から男橋、菖蒲橋 女橋となっています。つまり中洲先端地区から浜町・蛎殻町方面を撮影したものです。
あやめ公園を歩いていると、いくつもの箱崎川の護岸跡を確認することができます。
「写真提供:中央区立京橋図書館」
上の写真は昭和30年代の菖蒲橋の写真 下は現在の菖蒲橋跡の写真です。箱崎川の上は首都高速道路となっています。上下写真の右側の木々の部分の後側が金刀比羅宮となっています。菖蒲橋のたもとには、現在でも金刀比羅宮が立っています。
左上の写真は金刀比羅宮の正面からの写真となります。玉垣奉納者をみると『中州 割烹 弥生』『中州 割烹 三田』『中州 割烹 中州』と割烹・料亭が多かったことに気がつきます。現在の中洲はマンションだらけで中洲にこんなに割烹・料亭があったとは想像できません。それから、中洲で忘れてならないのが真砂座です。
「写真提供:中央区立京橋図書館」
上の写真は大正時代の真砂座です。下の写真はマンションの植え込み部分に申し訳なさそうに残る真砂座跡の石碑です。
「真砂座は明治二十六年(1893)一月、日本橋区中州町に建設され、明治後半から大正時代の演劇史上にその名をとめた劇場で、やがて自由劇場を結び、後に築地小劇場へと発展していった・・・略
・・・二十六年以降中州といえば真砂座であり、真砂座といえば中州の代名詞でもあった」
『中央区史より』
しかし、立地の不便さから客足も遠のき大正六年には廃業となってしまった。
そして、首都高速浜町入口へと歩いてくるとそこはかつて箱崎川と浜町川の合流地点となります。
写真は右側が女橋、正面が川口橋、これより先は浜町川となります。
「写真提供:中央区立京橋図書館」
現在は、浜町緑道公園の入口となっています。
そして、東京シティーエアーターミナルを越えて箱崎方面へ進みます。今まで何百回と通ってきた歩道横にも箱崎川の護岸跡を発見しました。ボーと歩いていると何も気が付かないだなあと少し反省しました。
左下の写真は新永久橋から蛎殻町方面を撮った写真です。右下の写真が現在の写真となります。左の写真はおそらく昭和40年代と思われます。写真左側の建物の窓枠と窓下の〇歯科の看板が一致しています。
「写真提供:中央区京橋図書館」
そして、箱崎川第二公園,箱崎川第一公園へやってきました。
今回の街歩きもここが終点となります。亀島川の水門が見えてきました。
箱崎川、今でも護岸跡はいたるところに残っています。日本橋中洲には今では当たり前のように行き来しているのに、つい46,47年前までは陸続きではなかったことが不思議に思いました。また、日本橋中洲の歴史を再確認する良い機会となりました。
それから暑い日が続いています。街歩きをする際は必ず帽子とこまめな給水を忘れずに実践するようにしてください。