こんにちは、湊っ子ちゃんです。今日は、日本橋室町四丁目5番から、日本橋小伝馬町3番までの「時の鐘通り」を歩きます。
「時の鐘通り」といえば、「石町(こくちょう)時の鐘」ですね。現在の、室町四丁目交差点から裏通りに入ったところの、「鐘つき新道(じんみち)」と呼ばれていた通りに、時の鐘はありました。
創建は、二代将軍秀忠の時代といわれ、鐘つき役を仰せつかったのは、辻源七という人物です。先祖もまた、お寺で食事の時間を知らせる喝食(かつじき)という役目をしていたといいますから、おもしろいですね。その後家康に仕え、太鼓役になり、朝夕の時報を担ったという経緯があるようです。
江戸市中に時刻を伝える、時の鐘。時の鐘をとりまく、江戸の人々の日常が垣間見える、興味深い歌と川柳があります。
〽 お江戸日本橋七ツ立
江戸から、京都・大阪に向かう旅人は、まだ夜の明けない日本橋のうえで、石町の鐘の七つ時(午前4時)を聞いて出発したそうです。この歌は、東海道五十三次を延々と、京都まで続きます。
「石町の鐘はオランダまできこえ」
長崎から参府するオランダ商館長(カピタン)の定宿である長崎屋が、すぐ近くにあったことから、それになぞらえて詠まれた川柳です。
また、時の鐘のほとりには、元文2年(1737)、俳諧師 早川巴人(はじん)が「夜半亭」という庵(いおり)を結びました。内弟子として、若き日の与謝蕪村がここに居住し、俳諧の修行に努めたのです。「夜半亭」の号は、「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなんでいます。
明治に入り、役目を終えた時の鐘。関東大震災により一時行方不明となりましたが、小伝馬町の桑原七兵衛により保護され、 昭和8年、十思(じっし)公園に鐘楼が建ち、江戸の人々に親しまれてきた時の鐘は、ここに保存されたのです。鐘には、宝永8年(1711)鋳造の銘が記されています。
十思公園の辺り一帯は、江戸時代、「伝馬町牢屋敷」があった場所です。 牢内で斬罪のあるときは、延命を祈るがごとく、鐘を遅らせてついたといわれます。そのことから、「情けの鐘」とも呼ばれました。
伝馬町牢跡は、吉田松陰をはじめ、近代国家の成立に尊い血を流した数多くの志士の終焉の地であり、明治維新史の聖地とされています。 現在、時の鐘通りをはさんで十思公園の向かいには、大安楽寺と、見延別院(みのぶべついん)があります。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第23号 平成30年9月29日