こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、明石町1番から、明石町8番までの「居留地通り」を歩きたいと思います。明治時代、現在の明石町一帯には、築地外国人居留地がありました。
♪ 江戸幕府と開国
安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、これまでの鎖国を停止し、実質的な開国へと歩み始めたのです。同年、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結し、これを「安政五カ国条約」といいます。
この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・新潟・長崎・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)を開市しました。
さて、開港と開市(かいし)の違いですが、開港は外国船の出入りが許されていたのに対し、開市は外国船の出入りはできない点にあります。そのため、商取引の利便上から、開市場は開港場に近いところに設けられる必要がありました。
また、日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や、商取引のための専用特別区として、開港場と開市場に設けられました。
明治3年(1870)、ようやく整備された「築地外国人居留地」でしたが、すでに開港場として発展していた横浜に出遅れたばかりか、明治5年(1872)、新橋と横浜間に鉄道が開通されると、外国の商人たちは築地に住まわず、横浜から日帰りで取引を済ませるようになりました。
そのため、築地外国人居留地にはあまり人が集まりませんでした。しかしそのことが、築地外国人居留地に独特の文化をもたらし、日本の近代化に多大な影響を与える一地区を形成することになるのです。
♪ 築地外国人居留地の特色
横浜や神戸が、貿易の町として発展する一方で、築地外国人居留地には、次第に宣教師や教師、医師などが住み始め、日本における布教活動の拠点となり、宣教師館や教会などが建ち並ぶなど、文化的な色を濃くしてゆきました。
明治6年(1873)に、キリスト教禁制の高札が撤去されたことも、このような布教活動を後押ししたと言えるでしょう。
宣教師たちは、それぞれに教会を建て、神学校やミッションスクールを創って布教活動に活躍しながら、医療事業や慈善活動にも貢献しました。築地外国人居留地で生まれた教派は13にものぼり、同じく13校がここで発祥しました。今日でも名高い学校の多くが、ここ築地外国人居留地で発祥しているのです。また、教会は10棟を数え、異国情緒漂う町並みが造られていったのです。
♪ 今も残るレンガ塀とガス灯
築地外国人居留地内の番地は、1番から52番までありました。そのうち、隣り合った「52番」と「42番」の間に築かれていたレンガ塀が、今も残っています。現在、消防署と明石小学校の校庭がある並びです。
明治11年(1878)から32年(1899)まで、「52番」には聖パウロ教会がありました。「42番」には、明治9年(1876)から22年(1889)まで新栄女学校、同28年(1895)から32年まで東京中学院があったのです。このレンガ塀は、「イギリス式」と呼ばれる積み方をされているのが特徴です。
明治末年のものと思われるガス灯も残っています。
コリント式の鋳鉄製で、左右に広がった腕金や、その下に見られる帯状の繰り形など、特徴的な装飾が施されています。照明部分は、後に電気灯として使用された経緯が伺えます。今も、日が暮れると灯りがともり、往年の居留地時代を思わせてくれます。
大通り(明石町緑道)に出たところに、かつては浦堀橋が架かっていました。下を流れていたのは鉄砲洲川です。この橋を渡ると、左手には明治学院大学の前身である東京一致神学校があり、隅田川に向かいB6番女学校、A6番女学校と続きました。
A6番女学校があったのは、居留地「6番」、隅田川畔に位置します。明治3年(1870)、宣教師ジュリア・カロゾルスにより創設された、のちの女子学院です。築地外国人居留地に初めて建った洋館で、人々の注目を集めました。
♪ ヘンリー・フォールズと医療活動
浦堀橋を渡って右手には、指紋研究で名を馳せた、スコットランド一致長老教会の宣教医師、ヘンリー・フォールズ(1843-1930)の住居がありました。居留地「18番」にあたります。
ヘンリー・フォールズは、明治7年(1874)から同19年(1886)まで日本に滞在し、布教や医療活動、医学生の指導にあたり、築地病院を開いたほか、貧民救済のために謝礼なしで診察を行うこともありました。
また、日本における視覚障害者教育の必要性を感じ、明治13年(1880)、「訓盲院(くんもういん)」を創設しました。
訓盲院は、、ロマネスク風二階建て、総レンガ造りの校舎で、築地三丁目(現在の築地四丁目)に建設されました。設計は、ジョサイア・コンドルによるものでした。その後、明治20年(1887)、東京盲唖学校と改称し、同23年(1890)、小石川へ移転しています。
明治32年(1899)、条約改正により居留地制度が解かれたあとも、築地外国人居留地に漂う雰囲気や町並みは、すぐには変わらなかったそうです。しかし残念ながら、大正12年(1923)の関東大震災において、その面影はすべて失われてしまいました。
白川晃は「ちよろぎ」(昭和48年刊)のなかで、
― 赤煉瓦の異人館は外壁に蔦を這はせて、青葉や紅葉の時が見事だった。家々の窓は大抵上げ下げ窓で、外側には一様に古風な鎧扉がついており、それは永い間に塗り重ねられた暗緑のペンキの色で、彫刻のやうに重厚な落付きを示していた。―
と、築地外国人居留地の様子を懐かしく振り返っています。
現在、レンガ塀とガス灯は、居留地通りと居留地中央通りとの交差点に保存されています。かつて築地外国人居留地がこの地にあったことを物語る、数少ない遺構として、たいへん貴重な存在です。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第26号 平成30年11月6日