こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地六丁目4番から湊一丁目1番までの、「居留地中央通り」を歩きたいと思います。この通りは、平成25年度に愛称のついた、京橋地域で一番新しい通りです。最近、整備の完了した入船・湊地域の歩道には、トキワヤマボウシの木が植えられました。
♪ YEDO HOTEL
晴海通りに面した、築地市場内の駐車場は、その昔軍艦操練所があった場所です。
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)、この地にあった築地講武所内に、軍艦教授所を創設したのが始まりでした。
旗本や御家人、諸藩士から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転の練習などが行われ、向将監(むかいしょうげん)や、勝海舟などが頭取を務めました。
慶応元年(1865)には、海軍所と改称されましたが、類焼により、現在の旧浜離宮庭園の地に移ります。
明治元年(1868)、新政府により「東京開市」が各国に通告され、今の明石町一帯に、築地外国人居留地が設けられました。海軍所跡地に建設された「築地ホテル館」は、「外国人旅館」「YEDO HOTEL(江戸ホテル)」などとも称され、交易で訪れた外国人のための逗留施設として開業しました。
設計・施工は、清水喜助と考えられており、木造2階建、客室は102室もある大きなホテルでした。
外壁はなまこ壁、各室には暖炉が備え付けられて、海岸側にはベランダがあり、東京湾を一望できました。
また、印象的なのは、建物の中央には塔屋が設けられており、そこに鐘が吊るされて、さらに塔屋を中心に、左右対称の造りになっているところです。
これは、明治20年代まで各地に見られた、「擬洋風(開化式)建築」の典型的な特徴であり、外観は洋風でありながら、建築資材や技法は和式となっています。
しかしながら、明治5年(1872)、銀座の大火により、築地ホテル館は全焼してしまいました。
♪ 築地外国人居留地への玄関口
さぁ、あかつき公園にさしかかりました。今のあかつき公園一帯は、かつて「明石堀」と呼ばれる大きなお堀でした。その中央に架かっていたのが、外国人居留地への玄関口とされた、「新栄橋」です。
居留地中央通りは、かつての新栄橋を渡る格好になっています。新橋から来た多くの外国人は、この橋を馬車で渡って、築地外国人居留地に入りました。
♪ カトリック築地教会
聖ルカ通りを横切り、居留地通りと交差する地点、かつての居留地「36番」には、樹木に囲まれた小さな教会が、ひっそりとたたずんでいます。カトリック築地教会です。
カトリック築地教会は、明治7年(1874)、東京で最初の教会として、築地外国人居留地に建てられました。当初の名前は、築地聖ヨゼフ天主堂。東京で最初のカテドラル(司教座聖堂)でもありました。
明治11年(1878)、ゴシック様式赤レンガ造りの聖堂が建てられます。明治21年(1888)には、神学校内に暁星学園が発祥しました。ところが、関東大震災により焼失。現在の聖堂は、昭和2年(1927)、ジロジアス神父のもと再建されたものです。
レイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、ドリス式オーダー列柱、ペディメント(破風)には、チューリップとバラの彫刻が施されています。
明石町一帯は空襲を免れ、カトリック築地教会は、東京で最も古い教会のひとつとして、壮麗な姿を今に伝えています。
聖堂の中に保存されているのは、「江戸のジャンヌ・ルイーズ」の愛称で親しまれた、アンジェラスの鐘です。明治9年(1876)にフランスのレンヌより贈られたもので、大小ふたつの鐘の対でした。ルイーズは小さいほう。大きいジョセフィーヌは、大正9年(1920)、大司教座と共に、関口教会へ移りました。
♪ 居留地中央通りに建つ記念碑
1.明治14年(1881)雙葉学園発祥の地碑
2.明治15年(1882)立教女学校発祥の地碑
3.明治21年(1888)暁星学園発祥の地碑
4.明治28年(1895)関東学院大学発祥の地碑
また、居留地の外には、外国人に家を貸すことの許された「相対借地地域(雑居地)」というものがありました。居留地内には住まわず、この地区に住む外国人も多かったそうです。
相対借地地域は、居留地中央通りを沿うようにして、現在の築地六丁目・七丁目、入船・湊地域と、新富町がそれにあたりました。
今も入船地域では、聖路加国際病院の十字架がまっすぐに見える路地があります。地域のみなさんには、"十字架通り"の愛称で親しまれています。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第28号 平成30年12月2日