こんにちは、湊っ子ちゃんです。
前回まで、明治時代に築地外国人居留地のあった、明石町周辺の通りを歩いてきました。
今日は、隅田川畔に、平成の時代まで現存していた、「ポラバ・バンガロー」と呼ばれる外国人住宅について、ご紹介したいと思います。
名称=POLABA BUNGALOW
所在地=東京都中央区明石町8
設計者=J・バーガミニィ
施工者=清水組
竣工年=大正13年~14年(1924~25)
建築面積=66坪791(220,752㎡)
基礎=布基礎
木造平屋建
平成元年(1989)、聖路加国際病院の再開発事業が施行されました。現在、聖路加ガーデンの建つ場所にあったトイスラー記念館は、病院内の中庭に移築されましたが、じつは同じ敷地内にもう2軒、木造平屋建ての洋館が建っていました。そのうちの1軒が、「ポラバ・バンガロー」です。
「ポラバ・バンガロー」は、明治期におけるアメリカ公使館跡地に位置しました。病院関係者のための、外国人住宅でした。竣工は大正13年頃と推定されており、トイスラー記念館よりも早くから、そこに建っていたことになります。
"ポラバ女史"が住んでいた家のようですが、建築当初の設計図など、詳細な資料は残っていません。また、ポラバ女史について知る人も、長い時を隔てた今では、みつけることができませんでした。
外観は、和風の木造平屋でした。しかし、ひとたび調査が開始されると、思いがけない建築様式が明るみにでたのです。それは、当時の日本ではまだ珍しい、アメリカ住宅の建築様式である、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)が用いられていたことです。
さらに、居室はすべて洋室でした。明らかに、外国人のための住宅でした。 この建物の歴史的価値が認められ、近く取り壊される予定のなか、本格的な調査が行われました。
♪ ポラバ・バンガロー建設の経緯
大正12年(1923)に起きた関東大震災は、築地外国人居留地の面影をすべて奪い去ったばかりか、病院の建物にも甚大な被害をもたらしました。 仮病院を建てるため、アメリカから船で建築資材が運ばれました。木材や石綿スレート、瓦葺きなどです。それは、復興において早急に建てられた、バラック建築でした。
関係者の話によると、「仮病院を建てた残りの資材で、2軒の家を建てた」というのです。トイスラー記念館のそばに建っていた、木造平屋建ての2軒であろうと考えられています。竣工は、仮病院と同じ時期、大正13年6月頃と推測できます。
♪ ポラバ・バンガローの間取り
ポラバ・バンガローは、東西に棟を伸ばした形の中廊下型の家です。ポラバ女史の後、ミス・ポンド(ヌノ女史の説もある)が住んでいましたが、さらに住人が増えることになり、昭和8年(1933)、増築が行われました。
その時の各資料が、聖路加国際病院に残っています。図面には、 「POLABA BUNGALOW」 と記されていました。この建物が、ポラバ・バンガローと呼ばれる所以です。
また、増築における設計者は、J・バーガミニィと記されていました。 昭和8年といえば、病院の第1期工事が完了し、トイスラー記念館が新築された年です。いずれも設計は、J・バーガミニィ。おそらく、ポラバ・バンガローの増築は、これらと同時期に手掛けられたものと思われます。
玄関の北側には、「サーバント・ルーム」が2部屋設けられていました。これは和室であり、おそらく使用人に日本人を雇うことを前提にしたものと思われます。 廊下を中心に、南側にはリビングルーム、ダイニングルーム、ベッドルーム、バスルームがあり、北側にはキッチン、収納室があります。増築では、リビングルームが拡張され、その脇に玄関を増やしました。
増築に伴い、警察署へ届け出た「設計変更及暖房設置願届」が残っています。おそらく、住人が増えること、今後しっかりとした住環境が必要になったためと思われます。すなわち、ポラバ・バンガローは、震災直後、応急処置的に建てられたバラック建築であったことを裏付けるものです。
♪ポラバ・バンガローの建築様式
【軸組】
布基礎の上に、土台を置き、土台の上に縦枠の間柱が直接立っています。 下見板張りの外壁を取り除いたところ、中には幅約10センチメートルの板が、45度の角度で、斜めにびっしりと貼られていました。 さらにそれを取り除くと、3分の1角の間柱が、窓の位置とは関係なく、等間隔で立てられていることがわかったのです。これは、日本の建築様式とは明らかに違う点です。
また、間柱と間柱のあいだには、セメントブロックが挟み込まれていました。同じ工法が用いられている例として、群馬県指定重要文化財である、旧アメリカン・ボード宣教師館においても見られ、鼠避けであろうと考えられています。アメリカの住宅建築では、一般的に用いられていた方法である可能性があります。
【小屋組】
軒の低いマンサード屋根(腰折れ屋根)です。洋式の屋根でありながら、小屋組においては、トラス構造ではなく、和小屋方式がとられています。仕上げは、母屋がトタン葺、庇が波形石綿スレートです。
【内装 】
リビングルームにおいては、木毛ボードを用い、その上に化粧合板を貼り付けています。この化粧合板は、病院本館2階の天井と、同じものだそうです。アメリカからの輸入材です。
【床組】 リビングルームの床を剥がしてみると、根太の上に下地板が斜め貼りにされ、その上に薄いカーペットが敷かれています。床材の斜め貼りは、2×4工法の特徴でもあります。
アメリカの建築様式が取り入られていながら、随所には、在来工法が見え隠れしています。これは、設計者とは別に、実際に施工にあたった人物は日本人であり、慣れ親しんだ技法を使用したためであろうと考えられています。
洋風建築が日本に入ってきた明治期、このように工法が混在したケースは多く見られるものでした。日本の棟梁たちは、これまでの技術に誇りを持ちつつ、自分たちなりに解釈し、新しい工法を受け入れていった、過渡期であったことを物語っています。
♪ 日本における2×4工法
ポラバ・バンガローの特徴は、外観は和風木造平屋でありながら、完全なアメリカ住宅の様式を備えている点です。そのひとつに、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)があげられます。
2×4工法は、アメリカやカナダの、おもに住宅に用いられる工法です。細い間柱を等間隔に立て、梁などを組み合わせた骨組みに、下見板張りの外装板を貼付けて組み立てます。 アメリカの地形や歴史に培われた独自の技術であり、誰でも簡単に組み立てられる「プレハブ住宅」、という一面も持っています。
関東大震災の復興期、この建築様式が用いられた例は、多数存在するようです。 じつは、それよりもずっと前の時代にさかのぼり、2×4工法が、日本で取り入れられた初期の例として、北海道開拓使の建物が挙げられます。
明治2年(1869)、明治新政府によって設置された北海道開拓使は、アメリカの農務省の協力を得て組織されました。旧開拓使札幌博物場などが、重要文化財になっています。
その後、明治23年(1890)に、アメリカの組み立て住宅を持ち帰った例があり、これが民間でも2×4工法が導入されはじめた頃と見られています。
2×4工法が、日本において採用された経緯や段階を辿るうえでも、ポラバ・バンガローは鍵を握る存在です。
♪ バンガロー様式
「バンガロー」という形式に関しては、大正期における住宅改良運動において、海外より紹介された住宅様式のなかでも、最も日本人に適しているとされた、理想的住宅像でした。
大正12年(1923)における関東大震災の復興時、住宅不足解消のために、バンガロー形式が高く評価されるようになったのです。 「ポラバ・バンガロー」は、そういった風潮のなかで、それを実践したものと考えられます。
♪ ポラバ・バンガローのその後
昭和16年(1941)に、当時病院長であった橋本寛敏氏が、家族とともに住んだ記録が残されています。そのことから、「橋本記念館」の別名を持っています。
また、昭和52年(1977)からは、病院関係者の研修室や、会議室として利用され、「聖路加第二記念館」と呼ばれました。昭和60年(1985)には、再開発計画本部の事務所としても、その役割を担いました。
歴史を物語る建物は、いつの日も保存を願う声と共にあります。ですが、維持・管理等の問題から、やむを得ず姿を消してゆく建物は、後を絶ちません。ポラバ・バンガローも、そのうちのひとつです。
今は姿のない建物だからこそ、その「記録」が、私たちに多くを物語ってくれる、そんな気がします。
参考文献: 中央区文化財調査報告書第1集「築地の外国人住宅」
聖路加国際病院の付属外国人住宅「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告
平成4年 中央区教育委員会
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第31号 平成31年1月10日