今年の5月1日に皇太子さまが新天皇に即位され、新しい元号に切り替わるのに伴い、
巷では「平成最後の...」という言葉をよく見聞きするこの頃ですが、
中央区には、元号が名前についた通りがいくつかあるのをご存知でしょうか?
今日は、そんな「元号のついた通り」のうち、中央区内を通るものを、
2回にわけて、平成から遡る形でご紹介したいと思います。
■その1「平成通り」
日本橋兜町2番(鎧橋南詰)から築地2丁目15番(晴海通りとの交差点)
まで、新大橋通りの西側に並行して走る通りです。
なぜ「平成通り」の名になったのかは、私は存じ上げていません...。
(どなたかお詳しい特派員さんに解説していただきたいです!)
始点付近の兜町・茅場町には、東京証券取引所(写真1枚目)や
摂社日枝神社のほか、高度経済成長期を思い出させるような
オフィスビル(写真2枚目)が立ち並んでいます。
どちらかというと「昭和」の味わい深さもありますが、
平成という時代を越えてエリアの再開発が始まっており、
時代の流れを感じます。
終点付近の築地には、東京都選定歴史的建造物にもなっている
「宮川食鳥鶏卵」さんの建物(1929年築)があります。
そのほか、沿道には、新富座跡、桂川甫周屋敷跡などの史跡もあり、
「平成」と言いつつも、様々な時代を抱える通りになっています。
■その2「昭和通り」
新橋(港区新橋1)から大関横丁(台東区根岸5)までを結ぶ
幅の広い通りで、中央区内を含む新橋~上野の間は、
中央通りの東側に並行して走っています。
さきほどの平成通りとも、首都高速道路を挟んで並行していますね。
この道路は、1923(大正12)年に発生した関東大震災のあと、
復興都市計画の目玉としてつくられたシンボルロードで、
1931(昭和6)年と、元号が昭和に変わったばかりのタイミングで
完成したことから「昭和通り」の愛称がつけられました。
まさに、昭和という新しい時代を象徴する通りだったわけです。
その幅広い幅員(44メートル)は、街路樹帯や歩道をたっぷり設けた
公園街路として計画された名残でもあります。
(ちなみに構想当初は、108メートルの幅員で計画されていました。
なんと今の幅員の倍以上です!)
図書館で古い写真を探してみると、完成した当時は上下の車線の間に
2列の並木と歩道が設けられていたようです。(一部は、駐車場として
使われていたようですが・・・)
現在の姿は、片道3車線以上ある区間、地下には通過交通専用の地下道と
そこから接続する地下駐車場、江戸橋以北では頭上に首都高速道路の高架...
と、都心部の大動脈として大量の自動車交通を捌く、機能面を重視した構成です。
ある意味、昭和、とくに戦後の時代を象徴する道路になっています。
いまは車通りが多いだけで殺風景、見どころがなさそう・・・と思われがちな
この昭和通りですが、沿道には日本橋郵便局(郵便発祥の地)、べったら市由来碑、
狩野画塾跡などの史跡や日本橋ダイヤビルディング(旧・江戸橋倉庫ビル)のような
著名な建築物があるほか、
日本橋本町には小津史料館やDaiichi Sankyoくすりミュージアムといった
スポットもあります。
平成通りも、昭和通りも、通りという視点で区切って歩いてみると、
また違った面白さがありそうですね!
さて、次回は大正時代へ遡っていきたいと思います。
「大正通りなんてないよ!?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、
実は、昔を遡ってみると中央区内にも「大正通り」があったのです。
乞うご期待!