[yaz]
2018年8月10日 12:00
月島地区をテーマに書くブログ最終回です。約100年前の東京のウォータフロント"月島地区"に海水浴場がありました。明治期に海水浴流行のきっかけをつくったのは、陸軍軍医総監の松本順(良順)で、医療とレクリエーションをかねて海水浴を奨励しました。
明治24年(1891年)大森海水浴場が、明治35年(1902年)には穴守海水浴場が、明治42年(1909年)には羽田海水浴場が開設されました。砂風呂などが人気を取り、大いに賑わったといわれます。大正時代に入ると「海水浴場」が都心を越えて月島・深川地区に波及し、大正2年(1913年)に完了した三号地の埋立(勝どき5~6丁目)と共に開設された月島海水浴場には、料理屋や宿泊施設・海の家が整備され大いに繁栄しました。下の地図では(三号地)の左側(西側)に海水浴場が見られます。
海水浴の様子を示す写真を見ると、今からは考えられない「ふんどし」姿の人が数多くみられます。
1930(昭和5年)年代になると、「海水浴場」は衰退し始めます。埋め立て・海水汚染のためです。
第二次世界大戦後、高度経済成長期を迎えたこともあり、東京に海水浴場がよみがえることはありませんでした。月島も然りです。今日の東京の海は海水浴には不適当な状況にありますが、人工海浜や親水護岸などの整 備も進んでおり、さらに水質の改善が進行することによって、将来再びそのにぎわいを取 り戻すことに大きな期待が寄せられている。
参考文献:
1. 平成17年度日本大学理工学部 学術講演会論文集「東京のウォータフロントにおける余暇文化の変遷に関する研究」
2. 中央区沿革図集(月島編)
[yaz]
2018年8月 8日 14:00
東日本大震災以降、南海トラフを中心とした大地震の到来を心配しています。関東大震災時の東京府における推定震度から中央区の地層を考えてみたいと思います。
山の手・下町を含む江戸には埋め立てと堀の造成の歴史があります。江戸開府直後に、本郷台地から続く江戸前島の埋立により日本橋・銀座地区が作られ、日比谷入江を埋め立てて日比谷・有楽町・丸の内地区の武家屋敷地域が作られました。江戸時代には月島・晴海地区は海でした。
関東大震災時の東京府の震度分布を見てみましょう。赤坂溜池・麻布十番や江東区の赤数字(震度7相当)が気になります。
埋め立てられて造成されたのではない佃島は、隅田川の上流から流れてきた土砂が自然に堆積してできた土地であることから、標高は月島・勝鬨地区よりも高くなっています。関東大震災時の震度は"5"程度だったようです。一方隅田川を浚渫した土砂を使って埋め立てられた土地である月島・勝鬨・晴海地区は関東大震災時の震度は"5~6"程度だったと言われています。
埋立地だから月島・勝鬨地区の関東大震災時の震度はもっと大きいのではないかという先入観を持っていましたが、銀座・日本橋程度で小さくてびっくりしています。
今の中央区には江戸前島と呼ばれた砂洲がありました。その西側は、日比谷から大手町にかけて日比谷入江が入っていました。開府後すぐ、幕府は埋め立てをしました。
隅田川の東側は地盤が悪く、西側は地は良いと言われています。しかし一部洪積地盤に穴があいて、そこに沖積地盤が入り 込んでいるので、大手町側に激震地域があります。一方、江戸前島の地盤の良さは明確です。
不動産を購入する場合には、古地図を見て地形を確認しましょう。「山の手なら安心、下町は危ない」という地名だけに踊らされないように!関東大震災発生日=9月1日の前に一言でした。