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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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べったら市の旧名は「腐市(くされいち)」

[yaz] 2018年10月30日 14:00

宝田恵比寿神社を中心に、旧大伝馬町一帯(日本橋本町三丁目、大伝馬町)また堀留町にかけて「日本橋恵比寿講べったら市」が、毎年10月19日/20日に開催されています。既に終了してしまいましたが、友人が出店していましたので訪問し楽しい時間を過ごすことが出来ました。

"べったら漬け"は、麹と砂糖などの甘味料で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからきており、かつて若者が「べったりつくぞぉ~、べったりつくぞぉ~」と叫びながら縄に縛った大根を振り回し、参詣客の着物の袖につけてからかっていたという話です。ある意味、「婚活」ツールに利用してたということもあるかもしれませんね?

私はべったら市と呼ばれる前の名称「腐市(くされいち)」の話をしようと思います。

江戸末期に書かれた『守貞漫稿』27巻は、「10月19日の夜江戸大伝馬町腐市」から始まっています。中を読んでみますと、「又、新漬け大根を売る、所謂浅漬にて干大根を塩、糠を以って漬けたる、けだし糀を加えたるを良しとす。夜市等に之を売ること、唯この夜一夜(このよいひとよ)限れり」と記されています。特別製品には「麹(糀)」は入っていたのでしょうが、普及品には入っていなかったようですね。大伝馬町「腐市」_『守貞漫稿』.jpg

「べったら市」は19日限りのはずが、どうして19/20日の2日間になったのでしょうか?

注: 守貞謾稿(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)は、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した書物。著者は喜田川守貞。1837年(天保8年)に書かれ始め、約30年間書き続けて全35巻(「前集」30巻、「後集」5巻)をなした。刊行はされず稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻されたが、1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とみなされています。

 

 

江戸城石丁場遺跡「羽柴越中守石場」に登る

[yaz] 2018年10月 1日 18:00

江戸日本橋の小田原町の由来から、江戸城の石垣の石丁場遺跡に続く話を前月報告しました。実際に登ってみなければと考え、伊東市観光協会に連絡してガイドの方々の支援を得て登りました。その奮闘記を記述します。(道なき道、片側谷(注: 当然フェンスなし)の道、ロープを伝って上る道などを上り降りしますので、ガイドなしでの単独登山は非常に危険です)

日時: 2018年6月27日9:00集合

集合場所: 伊東線宇佐美駅

天候: 晴れ、31℃/24℃

予定通りの時刻に出発し、下の地図で示すように石切り場(ナコウ山)コースを通って頂上で「羽柴越中守石場」を見て、石切り場(白波台)コースを下る予定でした。しかし同行者が財布を登りの途中になくす事故があり探索のため同じコースを戻らざるを得ないはめになりました。国史跡を2度(息も絶え絶えでしたが)見る旅となってしまいました。

伊東市宇佐美_石切り場_地図(1).png 

江戸城石垣石丁場跡見学コース.jpg

宇佐美駅を出発した一行は駅脇の石丁場の説明板で全体像をつかんだ後、出発!!!!!!! 洞ノ入地区で発見された石を展示している郷戸(ごうど)公園をまず目指します。

宇佐美駅_石切り場紹介看板.jpg

  

郷戸公園(1).jpg

 

これから目指す「洞の入(どうのいり)」地区には、「石を掘り出す」「石を割る」「石の形を整える」「石に刻印を刻む」「完成した石を集積する」などの一連の工程を示す遺跡が集中しています。上記の築城石は、洞の入地区の砂防ダム付近から見つかったもので、洞の入地区に近い郷戸公園に保管し公開しています。刻印は「折敷(おしき)に三文字」といい、九州臼杵の稲葉家などが大阪城で同じ刻印を使っていることが判っています。

折敷に三文字.jpg

次に中央区立宇佐美学園(静岡県伊東市宇佐美545)に向かいます。以前は宇佐美駅の至近にありましたが、ナコウ山麓に移転しました。この学園前から「江戸城石丁場遺跡ハイキングコース」に向かいます。(まさか道なき道を続くとは知りませんで、元気いっぱい登り始めました)登り始めて後悔しても後の祭り。徳川家18代当主"徳川恒孝氏が揮毫した「江戸城石丁場遺跡」と書かれた石が左側に見えましたが、注目できません。

ハイキングコース看板.jpg

  

徳川恒孝筆_石狩場碑.jpg

ロープを伝って上る道(崖?)、片側が谷になった細い道(落ちたら大変)などが続きます。このような道を歩くときには余裕がありませんので、写真撮影は不可能です。だんだん脚が上がらなくなります。

次の写真は恐らく当時石を曳いた道と思えます。この「石曳き道」は作業場所と思われる区域の脇を通って、周りの地面から掘り下げられたような形状で続いたようです。道なき道の脇や上方や下方に、写真のような石が転がっています。

石曳き道(ナコウ山).png

 

残った石.jpg

 

大名家の印と思われるもの、何の印か判らないものなど、いろいろの印が刻まれた石が無数に残っています。仕事に従事した石工の印ではないかと思われるものもあります。伊東市教育委員会の調査によれば、これまでに30種類以上が見つかっています。今回登ったナコウ山・洞ノ入で見つかった石の刻印の素性を一覧表にしました。「まんじ」「〇に上」「三つ串団子」「矢筈(やはず)」など面白い刻印がありますね。「折敷(おしき)に三文字」も入っています。

洞ノ入地区刻印(1).jpg

洞ノ入地区刻印(2).jpg

 

石を割った「矢穴」のあとが残る「矢穴石」も無数にあります。土中から掘り出した自然石を江戸城の石垣に使う形にするには専門的な技術が必要です。石の性質を利用して思い通りに割っていきます。

ふうふう言いながら登っていくと、12:00頃にやっと頂上に到着しました。「羽柴越中守(細川忠興)」の石切り場です。昼食と休憩を約1時間。風が強く、頂上で立っていることもできません。(コンビニ・売店もないので弁当持参です)

石を割った跡を残した矢穴石.jpg 石切り場の標石.jpg

 ナコウ山の山頂.jpg     ナコウ山_山頂の地図.jpg    

東京からの同行者が「財布を落とした」と言い始めたので、白波台経由で帰る予定を急遽変更し往路をそのまま戻ることになりました。(こんな山の中に人が入ってくることもないので、財布は無事見つかりました。)

往路で疲れているせいもあって、下山もしんどいものでした。4~5回、転がりながら、江戸城石丁場遺跡前に帰還。記念写真撮影。

写真の後列の左右2名が伊東市観光協会のガイド、杖をついている私は前列。ガイドリーダが疲労困憊の様子を見かねて、杖を貸してくれたおかげでどうにか下山できました。伊東市のガイドの方の余裕のあること!

ヘロヘロの東京グループ.jpg

宇佐美駅到着 14:30 解散

  

【反省後記】

このような登山を伴うガイドに行く時には、次の点に注意すべきと感じました:

1) 一眼レフカメラのような重いものは持っていかないこと。リュックサックでも登るときに負担となる。→ 登り下りに集中しないと危険ですから、大型カメラでの撮影は不能ですから、持っていく意味がありません。

2) ジーパンは汗が出る季節には、脚を上げた時にまとわりつくので不適切。一層、疲労が増します。

 

ブログを見て、「江戸城石垣石丁場跡」登山に興味をお持ちいただければ幸いです。

11月初旬に再挑戦する予定ですが、今回のトライアルの結果を考慮し、軟弱な私も参加出来るよう今回ご報告した登山の半分程度のコースとなります。

 

 
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