[湊っ子ちゃん]
2018年9月27日 12:00
こんにちは、湊っ子ちゃんです。今日は、日本橋本町三丁目7番から、日本橋大伝馬町14番までの、「えびす通り」を歩きたいと思います。
えびす通りに御鎮座するのは、べったら市で有名な「寶田恵比寿神社(たからだえびすじんじゃ)」です。江戸の昔から、商売繁盛、家内安全、防火の神として、「大伝馬町のえびす様」と庶民に親しまれてきました。
徳川家康入府の際、三河国(現在の愛知県東部)から随行して、この大業を成し遂げた馬込勘解由(まごめかげゆ)は、その功により、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜りました。御神体は、鎌倉時代の名匠、運慶(うんけい)の作と伝わります。
もともと宝田神社は、江戸城内宝田村(現在の大手町付近)にありました。名もこれに由来します。
慶長11年(1606)、江戸城拡張にともない、馬込勘解由は宝田村の鎮守様を奉安し、住民を率いてこの地に移転しました。その後、大伝馬町を起立します。
馬込勘解由はこの地の名主となり、何代にもわたって道中伝馬役(どうちゅうでんまやく)を担いました。伝馬役とは、公用の旅人に人馬の継立てを行う役のことで、京橋に南伝馬役、小伝馬町に江戸府内を担う伝馬役があり、大伝馬町と合わせて「三伝馬町」と呼ばれていました。
さて、馬込家のお屋敷には、出羽国(現在の山形県)から奉公に出てきた、お竹という18才の娘さんがいました。お竹さんは大変慈悲深く、米一粒、野菜の一かけらも無駄にはせず、貧しい人に施しました。
ある日、出羽国羽黒山の行者が現れ、お竹さんは大日如来の化身であると告げたのです。この話は市中に広がり、多くの人がお竹さんを拝むために訪れました。寛永17年(1640)頃のことでした。お竹さんの使っていた井戸は、今もえびす通りに残ります。
毎年10月19日・20日に執り行われる「べったら市」と「恵比寿神祭」は、"年また新たまる"と、お正月を迎える心構えとして、今なお商人にとって大切な年中行事となっています。もともとは、商業の守り神として恵比寿神の信仰の厚い、関西の風習を受けたものです。
19日には、恵比寿講にお供えする品物、魚や野菜、小宮(神棚)などが売られたのが始まりです。20日の当日は、親類縁者などで、盛大に祝宴をはりました。また、江戸では、恵比寿様と大黒様の両神を祭ったようです。
えびす通りは、小さな通りです。 オフィスビルが並ぶなかにも、語り継がれてきた歴史と、古くからの町並みが面影を残す、ゆったりと時の流れる道でした。もうすぐ催されるべったら市と恵比寿神祭、楽しみですね。
お祭では、寶田恵比寿神社門前と、その周辺に市がたちます。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第22号 平成30年9月25日
[湊っ子ちゃん]
2018年9月14日 18:00
「本銀(ほんしろがね)通り」は、中央区に数ある愛称のついた道路のうちで、一番新しく命名された通りです。平成27年(2015)の誕生。日本橋本石町4丁目2番から、日本橋本町4丁目6番までの、520mの道のりです。
100年近い時を経て、よみがえった「本銀(ほんしろがね)」の名には、感動的なエピソードが詰まっていました。
♪ 本銀(ほんしろがね)町
江戸時代、神田との境、神田堀と外堀に面したところに、「本銀町」と呼ばれていた町がありました。現在の日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の、各4丁目の北半分にあたる場所です。町名は、銀細工職人が集住していたことと、その後神田に起立した新銀町と区別するため、本の字を冠したことに由来します。
東西に延びる町屋であった本銀町は、武家の消費需要を賄う町人地として、大いに発展しました。刀脇差細工・縫箔屋・指物屋など、じつにさまざまな諸職名匠が暮らしていました。
さて、神田堀は、またの名を「龍閑(りゅうかん)川」といいます。日本橋と神田の間に築かれた掘割で、本銀町には6つの橋が架かっていました。
それでは、当時の暮らしぶりが垣間見える、ふたつの橋をご紹介しましょう。
♪ 今川橋
今川橋は、日本橋から中山道へ向かう、たいへん重要な橋でした。天和の頃(1681~83)この地の名主 今川善右衛門の尽力により架けられたことから、その名がついたと云われています。
橋の周辺には、陶器(瀬戸物)をあきなう商家が多く、たいへん賑わいました。「江戸十組問屋便覧」には、瀬戸物問屋として、本銀町1丁目の西村屋勘兵衛、同2丁目および3丁目の今川屋嘉兵衛の名を挙げています。
♪ 龍閑橋
龍閑橋(当時は竜閑橋)は、江戸時代こそ木橋でしたが、大正15年(1926)、震災復興事業により架け替えられた橋は、"日本最初の鉄筋コンクリートトラス"として、大変貴重な文化財となっています。
橋の上を市電が通っていたため、強度を保つ工夫がなされていました。また、震災復興橋梁の特徴として、橋台を護岸から突出させて、橋の存在感を強調させることが挙げられますが、龍閑橋の場合、その特徴が著しく見られます。
龍閑橋の一部は、かつての橋詰広場に今も残ります。(所在地 中央区日本橋本石町4丁目・千代田区内神田2・3丁目)
♪ あとがき
旧龍閑橋の近くの工事現場で、おもしろい絵をみつけました。
防音壁に描かれた江戸時代の絵。店頭に着物を掛けて並べています。古着店の賑わいを描いたものと思われますが、注目すべきは、その縁取りの部分です。中央区と千代田区の区章が、コラボレーションであしらわれているのです。
橋がつなぐ、人々の賑やかな往来や、人情豊かな営みが聴こえてきそうですね。
「本銀(ほんしろがね)」の町名は、大正の震災復興事業により失われましたが、町を東西に貫く通りは、今日まで守られました。
今回歩いた「本銀通り」は、歴史ある町名を取り戻したいという、地域の皆さんの想いが叶った、素敵な通りでした。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第21号 平成30年9月11日