[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月29日 11:41
明石町に「電信創業之地」碑がある(写真上)。わが国で最初に電気通信が行われたのは、明治2年12月25日(1870年1月26日)で、この近くにあった東京築地運上所(跡地に碑石あり)と横浜裁判所(写真中央は、横浜地方検察庁前の記念碑)に設けられた「伝信機役所」間を結んだものであった。
明治2年9月19日(1869年10月23日)から工事が始まり、わずか3カ月ほどで、東京・横浜間の約32kmに電信柱593本を建てたという。およそ50m間隔に1本の割合で電信柱が建てられたのだから林立の感であっただろう。さらに、当時の記録写真を見ると、架線の本数がやたらに多いのが印象的だ。人々は、文字が電線を伝わって行き来するのが見えるのだろうか、と大騒ぎだったという、笑い話がある。
今でも電信柱と呼んでいるのは、これが事始めだったのだろう。当時は「電信」ではなく「伝信」といわれたようだ。「以心伝心」からか、「信(=まこと、真実)を伝える」ことからか、やがて「電気通信」の略として「電信」へと代わっていった。
このとき使われた通信機とはどんなものであったのか、明石町の碑石には何の記載もない。
それは、大手町の「逓信総合博物館」に展示されている。1837年にイギリス人のホイートストンによって開発され、フランス人のブレゲが考案した「ブレゲ指字電信機」である。実物は平成14年(2002)に国重要文化財に指定されたことで、現在展示されているのはレプリカである。
写真下が最初に使われた、その「ブレゲ指字電信機」である。左が送信機、右は受信機。双方に文字盤があり、イロハなど1文字1文字が刻まれている。送信機の文字盤の針を、送りたい文字に合わせて発信すると、受信機の針が時計のように回転して、送られてきた文字を文字盤に指す、という仕組みだそうだ。当時としては、モールス信号機のように符号を覚える必要がないので、画期的な通信機であった、という。
しかし、操作は簡単だったが、送信スピードが1分間に5、6文字程度と遅く、遠距離通信には適さなかったという。よって使用されたのは明治8年(1875)ごろまでの短期間であったそうだ。
運上所は現在の税関。この脇に通信役所が設置された。横浜には現在の横浜地方検察庁に隣接して
神奈川県庁舎がある。ここが今から150年前の安政6年(1859)、横浜開港にともなって「神奈川運上所」が開設されたところで、史跡になっている。築地、横浜ともに外国人居留地に近いし、入出港する積荷の情報交換などに通信が使われた模様である。いずれにしても、この文明の利器は近代化の象徴であったといえよう。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月17日 10:00
「新場(しんば)」という言葉を聞いたことがあるだろうか? 今も「新場橋」(写真上)の名前で首都高速道路上(旧楓川(もみじがわ))に橋があるし、この近くに「区立新場橋区民館」(写真下=日本橋兜町)が存在する。これが江戸からの新場の名残であったことを物語っている。
現在の場所でいえば日本橋二丁目で、新場橋と千代田橋の間、「江戸・もみじ通り」沿いである。この旧楓川の西側一帯は古くは本材木町と呼ばれ、「木場」の原点とされる同職集住地。有名な『江戸図屏風』にも描かれていて、江戸初期から江戸湊の集散地として主要な河岸地であった。
では「新場」とは、どういうことなのだろうか。
じつは「新肴場(しんさかなば)」を縮めて、単に「新場」と称していた。そう、魚市場だったのだ。江戸の魚市場は日本橋だけでない、ここ新肴場、四日市、芝雑魚場(しばざこば)の4ヵ所があった。四日市は、今の日本橋と江戸橋間の南側辺りで江戸橋広小路と呼ばれた一帯。芝雑魚場とは、現在のJR田町駅東北側付近で、港区の史跡説明板が設置されている。
「日本橋魚市場の発展を受け、本材木町二丁目・三丁目に新しく魚市場を開設したのが「新肴場」(以下、新場)である。両者の役割は、月の上旬は新場が、中・下旬は日本橋が交替で幕府への納魚を担当した。成立の契機は、延宝2年(1674)に日本橋魚河岸を相手に訴訟を起こした相州三浦郡〔現三浦市〕と武州久良岐郡〔現横浜市磯子区辺〕の漁村13カ村が、日本橋より2割安の値段で売買することを許されたことによる」(『中央区三十年史』から)
これらの漁村からは、船足の速い、7-8挺櫓の押送舟(おしおくりぶね=一般には「おしょくりぶね」と呼ばれた)で、キハダマグロなら50本(約2千キロ)くらいを積み、前日夕方に出発し、翌朝早く江戸の魚河岸(魚市場)に着いたという。
江戸期、新場があった楓川は江戸湊から八丁堀(桜川)や京橋川とつながり、海運橋(将監橋、海賊橋とも)先で日本橋川に接していた。ここに架かる新場橋は中の橋、楓橋の別称もあり、享和年中(1801-04)の創架のようだが不詳。古い新場橋は現橋より北側(新場橋区民館辺り)にあったが、震災後架け替えで現在地となった。
楓川西側(現日本橋二丁目)は町人地で、対岸の東側(現在の兜町、坂本町公園付近)は御船手頭屋敷(俗称海賊屋敷)と坂本町などの町人地、さらにその東側には八丁堀与力同心組屋敷だった。幕末期、南町奉行所(現有楽町付近)に勤める与力衆は新場橋を渡り大名小路を通った、といわれる。
今のところ、新場跡の碑石や説明板はどこにも設置されていないが、新場橋に歴史の一端が見出される。魚市場の変遷は日本橋周辺から築地へ、さらに豊洲移転の計画がある。食を支える魚市場は江戸期から都市の重要拠点であった、といえよう。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月 8日 18:30
神田との境界に竜閑川(りゅうかんがわ)があった。かつては神田区と日本橋区、現在の
千代田区と
中央区の区境が旧竜閑川。戦後すぐに埋め立てられたが、その跡地は路地状の地形となっているので歩くことができる。
浜町川と接していた辺りが「竜閑児童遊園」(日本橋小伝馬町19-4)である。ここに区境・竜閑川に架かっていた橋を模したものであろうか、何となく郷愁を感じさせる情景がある(写真上)。写真の橋をはさんで左側が
中央区、右側は
千代田区、中央部に旧竜閑川が流れていた。
この辺りに架かっていた橋は、明治期は「玉出橋」だが、江戸期の絵図には「幽霊橋」ともあり、何とも怖そうな場所であったのだろうか。現在、この遊園の場所は、
中央区と
千代田区が共存している。中央区側には「竹森稲荷神社」が隣接し、
千代田区側は和風造りの公衆便所や遊具がある。
竜閑川は日本橋川(旧外堀)と浜町川を結んだ堀川。明暦3年(1657)の大火後、防火のために8丁(約870m)の土手が築かれ、元禄4年(1691)ごろに町人たちの費用で堀割が開削され、通称「神田八丁堀」と呼ばれた。当初は白銀(しろがね)堀ともいわれたが、のちに竜閑川と名付けられたそうだ。竜閑の名は、川の西側の町に御坊主「井上竜閑」が住んでいたから、という。
神田八丁堀は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく=明和2年(1765)-天保2年(1831)。東陽院の墓碑は中央区民文化財史跡指定)『東海道中膝栗毛』で弥次さん(弥治郎兵衛)がこの新道の小借家に住んでいた、という滑稽本の舞台として知られている。
日本橋川に接する西端の場所(日本橋本石町四丁目)に「竜閑橋(龍閑橋)」が架かっていた。大正15年(1926)架橋の親柱と橋桁一部が、いま残っている(写真下)。当時は橋長10.5m、幅員27.0mで、わが国初の鉄筋コンクリートトラス桁構造であった、とのこと。竜閑川には、ここ竜閑橋から東へ、白旗橋、西仲之橋、今川橋(国道17号)、東仲之橋、地蔵橋(昭和通り)、火除橋、九道橋、甚兵衛橋、玉出橋があった。今川橋跡と地蔵橋跡には記念碑や説明板が設置されている。