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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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秋の宵 人形町の芸者新道

[ムーミン] 2012年9月28日 09:00

 人形町通りから大観音寺脇の路地を入り その先の道を横切ると 芸者新道 または 小菊通りと呼ばれた小粋な路地があります。

 この名前の由来は この道沿いに 芸者置屋が数件あったからです。

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 この路地には テレビの新参者の料亭 「まつ矢」のモデルになった「きく屋」、ねぎま鍋の「よし梅芳町亭」があります。よし梅芳町亭は 芸者から転身した女優、花柳小菊の住居となった建物。  格子や天井など随所に贅沢な意匠が凝らしてあり、紅白の山茶花の植わる坪庭も風流。 登録有形文化財に指定されています。

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  この路地は  京都の祇園か 先斗町かとおもわせる不思議な一角です。
 

 

街歩きの面白さ『宝町』

[杏葉牡丹] 2012年9月22日 08:30

今はもう無くなってしまったのに、駅名や看板等だけには『地名』が残っている。
そんなことがありますよね。


都営地下鉄浅草線の『宝町』駅もそのひとつ。
東銀座駅と日本橋駅の間にあって、現在の京橋1~3丁目になります。


『宝町』の名称は、昭和6年に、実業家で東京市会議員でもあった中沢彦吉の発案により、めでたい名をということで付けられたのですが、昭和53年には、京橋1~3丁目に統合されて、無くなってしまいました。

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短命に終わったこの町名ですが、「中央区30年史」によると、消えた理由の一つは、日本橋室町(ムロマチ)の「室(ムロ)」と宝町の「宝(タカラ)」の字がよく似ていて間違えやすく、郵便物の配達に紛乱を招く欠点があったから、との事だそうです。

そう言えば、子供の頃に、宝町に住んでいた友人から、郵便の宛名が「日本橋宝町(ニホンバシ タカラチョウ)」となっていることがあると、聞いた事があります。
確かにパッと見ただけだったり、崩してあったりすると、間違うのも無理はない気もします。


ところで、先日『宝町』駅の階段を上がってすぐの路地に、『京橋宝通り』という表示を発見。
「宝町」に「宝通り」でおめでたいから、こんな場所で宝くじを買ったら当たるかしら、などと思っていたら、なんと50m位先に「宝くじドリーム館」を発見!

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ここでは「ロト6」等の抽せん会や歌謡ショーなどがおこなわれる抽せんステージや、日本の宝くじの歴史の展示、1億円のお札の体感コーナーなどがあり、宝くじの発売スケジュールや過去1年間の当選番号を検索できるコーナーもあります。

インフォメーションの方に「宝町だから、この場所に作ったのですか?」とうかがったところ、「いいえ、単なる偶然のようです」と笑いながら答えて下さいました。


すぐ近くに骨董街はあるものの、ビルばかりが並んでいて、何のへんてつもないビジネス街にみえるこの場所ですが、ちょっと気をつけて「街歩き」をしてみると、へぇーと思う面白い発見があるものです。
特に中央区は、江戸の昔から日本の中心で、街の隅々に様々な歴史がありますので、歩く度に発見の連続です。

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(45) 五街道今昔(1) ~日本橋から東海道を歩く~

[巻渕彰/写楽さい] 2012年9月20日 08:30

来年は江戸開府410年にあたる。五街道も開府のころ制定されたという。日本橋を起点に北へ南へ、文字通り"四通八達"の道路網が敷かれた。江戸の繁栄を支えた五街道は、今日の国道へと引き継がれている。中央区内の五街道の今昔を日本橋から歩いてみよう。はじめは東海道。

 

0913_45_120917tokaido.jpg一番賑わった東海道。広重「東海道五拾三次 朝之景」は南詰西側の高札場から出立である。この場所には現在、「日本の道100選 中央通り」碑が立ち、道の起点である日本橋も説明されている(写真上左)。南に向かい日本橋交差点は、南進すると東海道、現国道15号線だが、永代通りを西に折れると甲州道中への追分で、今日では国道1号線を経て、国道20号線へとつながっていく(写真上右)。

 

東海道を進むとやがて中橋広小路。「江戸名所図会」に「中橋」として載る。八重洲通りとの交差点である。八重洲通りは江戸初期の絵図では堀川だった。その東側の大鋸町(おがちょう)は広重が「名所江戸百景」などを制作した住まいがあり、江戸百景「市中繁栄七夕祭」はこの地を描いたといわれ、ここが終焉地となった。明治屋京橋ビル辺りの通町筋は、江戸三伝馬町のひとつ、南伝馬町である。名所図会「南伝馬町祇園会御旅所」の挿絵があるが、現在、面影は全くない。

 

京橋交差点のかつてのランドマークだった辰野金吾設計の初代「第一相互館」は最近3代目として「相互館110タワー」に建て替わった。この付近が日本橋から1km地点である(写真下左)。京橋川に架かっていた京橋跡には明治、大正期の親柱が残る(写真下右)。橋の北詰東側は江戸百景「京橋竹がし」に描かれる。北詰西側に「江戸歌舞伎発祥の地」と「京橋大根河岸跡」碑が立つ。

 

江戸期は辺鄙な地域であったといわれる銀座に入ると、新両替町は明治2年(1869)に銀座の町名になり、現在「銀座発祥の地」碑が立つ。今年は江戸銀座役所設置400年にあたる。現在の銀座5丁目には、名所図会「尾張町 布袋屋・亀屋・恵比須屋」に3軒の呉服店が描かれる。今日の銀座4丁目交差点は、かつては尾張町交差点と呼ばれた。東側、三十間堀の木挽橋を渡った一帯は名所図会「木挽町芝居」に森田座が描かれる。現在地は銀座6丁目、昭和通りあたりである。

 

銀座通りの終点は新橋。汐留川に架かっていたが、古くは芝口橋と呼ばれ、芝口御門が置かれたと北詰東側の中央区説明板にある。この付近はまた、名所図会「しがらき茶店」があり、日本橋から2kmすぎで、ひと休み処だったのだろうか。現在、この道は中央区の「信楽(しがらき)道路」と愛称されている。ここで中央区内の東海道は終わる。●巻渕彰

 

 

 

築地本願寺「九条武子夫人歌碑」

[阿舒庵亭主] 2012年9月19日 09:00

ときどき立ち寄る築地本願寺の境内には親鸞聖人像のほかに色々な碑や塔がある。本願寺のパンフレットによれば芭蕉句碑、土生玄碩墓、間新六供養塔、森孫右衛門供養塔、酒井抱一墓、九条武子夫人歌碑、そして親鸞聖人像がある。 IMG_8940.JPG IMG_8932.JPG  

 

本願寺のパンフレットにはないが、片隅には日清戦争、日露戦争の戦没者の供養塔や台湾での物故者遺骨安置所などもある。児玉源太郎が寄進した凱旋釜の碑がある。と云っても釜らしきものは見当たらない。これらの碑には中央区の説明板もなく来歴は詳らかではないが、是非、説明板を検討してもらいたいと常日頃思っている。

 

さて九条武子は柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された歌人であるが、何故、ここに歌碑があるのかに興味を持って調べてみた。

 

武子は西本願寺第21代法主大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれている。1909年には公爵家出身で正金銀行に勤務する九条良致と結婚し夫の勤務先兼留学先であるロンドンに渡るが翌年、単身で帰国する。そのころから佐々木信綱に和歌を学ぶようになる。1911年義姉・大谷籌子裏方の早世に伴い、30歳の若さで仏教婦人会本部長に就任する。その頃、仏教に基づく教育との視点から、現在の京都女子学園・京都女子大の設立にも参画する。

 

1920年には夫が帰国し現在の新宿区下落合に居を構え、夫婦同居が実現される。1923年の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、同地に臨時救済事務所出張所をおいて救済事業の陣頭指揮をした。また、上野公園に託児所、日比谷公園には臨時の診療所を造った。これが現在の「あそか病院」の基礎となった。

 

九条武子は西本願寺の大谷伯爵家の出であり、大正時代の代表的麗人であるだけでなく、女流歌人であり社会事業家であった。築地本願寺の九条武子夫人歌碑の和歌は

 

おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや(築地本願寺歌碑) IMG_8935.JPG  

 

1928年震災復興事業での奔走の無理がたたのか、敗血症発症により42歳の若さで世を去っている。

 

 

今年七年目の秀山祭~新橋演舞場~

[織衣舞] 2012年9月 9日 08:30

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今年七年目の秀山祭が開幕した。 

   昼の部 ・・・「寺子屋」  「河内山」

   夜の部 ・・・「時今也桔梗旗揚」  「京鹿子娘道成寺」

 

当初の予定では染五郎さんが出演されるはずだったのですが、8/27国立劇場での父松本幸

四郎さんの「古希記念舞踊公演」の最中に奈落に落下され重傷を負われたため、急きょ配役

に変更が生じました。

 

 「寺子屋」 ・・・松王丸(染五郎) 源蔵(吉右衛門) → 松王丸(吉右衛門)  源蔵(梅玉)

 「時今也桔梗旗揚」 ・・・小田榛春永(染五郎)    → 小田春永(歌六)

 

寺子屋などは播磨屋・高麗屋では大切なお芝居で、吉右衛門さんは甥の染五郎さんに先人

が完成したものを、しっかり伝えたいと意欲的であられたようで、どんな舞台になるか楽しみ

にしていましたのに残念でした。若い方が育ってきているのは将来が明るい話ですが。

でも夜の部は19:39終演でした。私はこの時間に終演は初めてだったのでちょっとビックリ

しました。

昼夜見ますが、染五郎さんの欠場は華が不足するようで淋しいです。役者さんもお気をつけ

られてくださいませ。

 

続きを読む: 今年七年目の秀山祭~新橋演舞場~

 

伝馬町牢屋敷跡遺跡見学

[映画好き] 2012年9月 1日 08:30

京橋図書館で伝馬町牢屋敷の発掘工事が見学出来る事を聞いて出かけました。

平日にもカかわらず、多数の人々が来場していました。

場所は、十思公園の敷地内約2600坪以上の処の銅鐘「石町時の鐘」を右側にして、

中央正面は十思小学校、左側は道路縦の長方形に掘削されていました。

道路より4メートル程の低い場所で見下ろすような状態でしたが、周囲が盛り土され

て牢屋廃止後、公園になったようです。

遺跡配置地図の資料をいただき牢屋敷内の全体像が上水道や塀とか石垣、奉行

の屋敷・同心の住居や下男等の住まい・米蔵や帳面蔵・身分差の牢屋・死罪場等

の記述は、テレビ・映画の時代劇ではわからなかった事が理解できた。

牢屋に入った伝説の人物名も記述されているので興味深い深い。

10月迄公開されるとの事です。

 

 
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