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今年は 戌年! 戌と云えば安産祈願 水天宮!

[朱房の十手] 2018年2月 8日 16:00

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我が家の犬は番犬にはなりません? 

←吠えもせず、散歩も、エサやりも要りません!

今年の新年会で我が家にもらわれてきました。

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水天宮 境内の親子犬→

 

水天宮は江戸時代から安産等々のご利益があると言われている福岡県久留米市の水天宮から分霊され三田の有馬家に勧請されたのが始まりです。(犬はお産が軽いと言われています)

 

明治時代(明治5年)になり、水天宮は現地(人形町)に遷座しました。

 

江戸時代には久留米藩主 有馬様が参勤交代の折に犬を連れてお国に帰ったそうです。

 

 人形町には西郷隆盛の屋敷があり、ウサギ狩りのため犬を飼っていました。西南戦争の折も犬を連れています。

戦後生き残った犬は,捕獲され弟 西郷従道に引き渡されたそうです。

西郷屋敷跡地は日本橋小学校です。水天宮のお参りの折、お立ち寄りください。

 

 

 

木下杢太郎とカフェー

[yaz] 2018年2月 8日 09:00

木下杢太郎シリーズ第一回「木下杢太郎と八重洲橋」で、鎧橋の脇に開かれた「メゾン 鴻ノ巣」にパンの会メンバーと共に足しげく通っていたことを書きました。

/archive/2017/12/post-4762.html

 

パンの会は明治末期の耽美主義文芸運動の拠点となった談話会です。 1908年 12月(明治41年)に発足、メンバーとしては』系の木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らの詩歌人,美術雑誌『方寸』出身の木村荘八などの美術家,自由劇場の小山内薫,市川左団次らから構成されます。永井荷風なども出席し,東京をパリに,隅田川をセーヌ川になぞらえた青春放埒の宴を続けました。日本橋川をセーヌ川になぞったという説もあり、「メゾン 鴻ノ巣」も重宝がられました。(日本橋小網町には「メゾン鴻ノ巣」について説明する看板が設置されています)

パンの会.jpg 

この絵は木下杢太郎記念館(伊東市)に飾られているものを撮影したものです。絵は杢太郎の作です。

 

「鴻之巣」の名は、「メゾン 鴻ノ巣」のオーナー奥田駒蔵のふるさと"久世郡寺田村(京都府城陽市)近くの丘「鴻ノ巣山」"(埼玉県の鴻ノ巣市は無関係)に因んでいます。「メゾン 鴻ノ巣」開店時の駒蔵は若干三十六歳でした。

大正四年ごろ、「メイゾン鴻之巣」は日本橋木原店(きわらだな・かつての白木屋の横町、いまも「木原店跡」の札がかかっている)に移転します。
一階は庇のような狭いバア。煉瓦のあらわに出た壁が地下室を思わせる感じでした。二階の食堂はかなり広く、さまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになりました。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会の写真が残されていて、鴻之巣の店内の様子が判ります。

芥川龍之介_羅生門_出版記念会(日本橋の鴻ノ巣).jpg 

 大正九年の末ごろになると、店は再度移転します。こんどはフランス料理「鴻乃巣」として、本格的なレストランを名乗ります。場所は京橋の南伝馬町二丁目12、現在地下鉄京橋駅上の明治屋の位置です。もと田村帽子店のあった四階建てのビルとのこと。
一階は天井の高いホールのような造りで、曲木細工の椅子に円いテーブルが数組。冬にはだるまストーヴが赤々と燃え、カウンター背後の棚には洋酒の瓶がズラッと並び、鼻をくすぐるコーヒーの香りが店先にまで漂い、客を誘います。二・三階には大小の宴会場が数間あり、四階は従業員の休憩所や家族の住居になっていたようです。
大正十二年九月一日、関東大震災で店は倒壊してしまいますが、駒蔵一家は無事でした。
 

メゾン鴻ノ巣(京橋).jpg 田村帽子店(京橋).jpg

レストラン_鴻ノ巣(京橋).jpg 

しかし、震災からわずか二年後の大正十四年十月一日、駒蔵は四十三歳の若さで急死します。

 

パンの会はいろいろの店を使って集会を続けますが、「メゾン 鴻ノ巣」以外で馴染みにしたカフェーが銀座のプランタンです。東京美術学校(現 東京芸術大学美術学部)出身の松山省三が、パリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月にカフェープランタンを開業しました。所在地は京橋区日吉町20番地(現銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座レンガ街の一角。煉瓦の建物を改装し、小山内薫が「プランタン」と命名しました。類似の店は存在していましたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)カフェーが登場した訳です。

 

プランタンなのか鴻ノ巣なのかは特定できませんが、木下杢太郎から聞き取って木村荘八が絵筆をとった絵が残っています。楽しそう!

パンの会の様子(木村荘八作).png

銀座のカフェーはその後いろいろの変遷を経て、一つの形として「バー」という形式を生み出し、銀座全体(1丁目から8丁目)で約350軒に上っています。木下杢太郎や太宰治などのカフェー体験の一部でも、銀座のバーを訪ねて感じてみませんか?

 

 

 

初午 稲作と習い事の吉日

[あすなろ] 2018年2月 7日 09:00

2018年の初午は、2月7日。

 

お稲荷さんの祭の日です。
農村では五穀豊穣を願い、町中では
商家が商売繁盛を願うお祭りを行う日です。

 

稲荷社が多い江戸の町では、大変賑わいました。

 

そして、初午の日から寺子屋に通うと
読み書きが上達すると言われ、子供たちが手習い師匠に
入門(寺入り)することが多い日でした。

 

 いの字より習ひそめてや稲荷山

 

この句を詠んだのは宝井其角。松尾芭蕉第一の門人で、
蕉門十哲の一人に数えられました。

其角.jpg

其角住居跡が、日本橋茅場町にあります。
界隈は、伊能忠敬や、村田春海が暮らした町。
知識人を偲びながら散策されるのも一興です。

 

◆其角住居跡
東京都中央区日本橋茅場町1-6-10

 

 

 

和紙とともに200年 【歴史編】①  ~ 和紙舗 榛原 ~

[rosemary sea] 2018年2月 6日 18:00

1505_016-21b店舗外観.jpg『ギフト、そして自分も楽しむ』をルック イントウして取材します、rosemary seaです。

日本橋の老舗和紙舗(わがみほ)、榛原(はいばら)さんの前回記事はこちらです。

⇒ /archive/2017/10/post-4699.html

和紙、和紙小物から便箋、レターセットに至るまで、広く紙製品を取り扱っておられます。

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今回は榛原さんの歴史について、詳しくご紹介します。

ただ、1回ではお伝えしきれませんので、2回に分けてご紹介させていただきます。

今回も株式会社 榛原 広報担当の中村陽子さんにお世話になりました。

 

それでは・・・

  

榛原さんの創業は江戸初期、1806年(文化3年)。

200年以上に亘り日本橋の地で商いをされてきました。

初代の佐助さん、奉公の後に独立し、紙・墨・薬の商いを始めます。

紙につきましては上質で美しい雁皮紙(がんぴし:前回記事参照)を取り扱うことで、江戸の人々に大好評となりました。

暖簾にも描かれているように「雁皮紙榛原」の誕生です。

1505_062aのれん.jpg

また、和紙に木版摺りで装飾を施した千代紙・団扇(うちわ)・便箋などの小物紙類も、主力商品となりました。

 

幕末から明治時代にはいち早く各種博覧会を通じ、広く和紙を欧米諸国に紹介されました。

     明治6年(1873年)ウイーン万国博覧会

     明治11年(1878年)パリ万国博覧会

     明治12年(1879年)シドニー万国博覧会

     明治21年(1888年)バルセロナ万国博覧会

等、それぞれ褒状を授与され、国際社会に対して日本の文化水準の高さを示します。

ヨーロッパに渡った榛原さんの和紙製品は、

     英国 ビクトリア・アルバート博物館

     同 グラスゴー美術館

     フランス パリ装飾芸術美術館

などに保管されています。

それらは19世紀後半に西欧に広まったジャポニズムに影響を与えた、と云われています。

 

一方、国内では文明開化の時流に早々に取り組まれ、西洋紙を取り扱いました。

明治期の榛原さんの引き札や店頭には「西洋紙品々」という看板が大きく記されています。

 

三代目の榛原直次郎氏は、明治16年(1883年)、日本美術復興を目的として結成された龍池会(りゅうちかい:日本美術協会の前身)に入会します。

そして明治24年(1891年)には日本青年絵画協会(のちの日本美術院)の設立援助をされました。

1511_05495絵はがき柴田是真「花くらべ」a.jpg

1511_05733a柴田是真 宝船.jpg

上:絵はがき柴田是真「花くらべ」・下:柴田是真 宝船

柴田是真(しばたぜしん)、柴田真哉(しばたしんさい)、綾岡有心(あやおかゆうしん)、川端玉章(かわばたぎょくしょう)、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)・・・。

当代一流の画家と交流を深めます。

そして団扇や扇子、木版摺り製品などの榛原さんの製品の原画を、多く依頼しました。

これが現代に続く「榛原デザイン」の礎となっているそうです。

1511_06355a柴田是真「菜の花畑に蝶」.jpg

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上:柴田是真「菜の花畑に蝶」・下:柴田是真「なでしこ」

明治20年(1887年)には明治新宮殿の天井張、壁紙などの内装の御用を務めます。

これにより、日本美術協会の総裁でもあられました有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)殿下より、「榛原の品は玉を聚(あつ)めたるが如し」と、堂号である「聚玉(しゅうぎょく)」の御染筆を賜りました。

 

・・・次回へ続きます。

 

1505_045店舗内観1a.jpg榛原

日本橋2-7-1 東京日本橋タワー

東京メトロ銀座線・東西線 / 都営地下鉄浅草線 日本橋駅  B6出口直上です。

駅上のCOREDO日本橋のななめ前になります。

03-3272-3801

 

営業時間  月曜日~金曜日 10:00~18:30

      土曜日・日曜日 10:00~17:30

休業日  祝日・年末年始・お盆

※ 詳しい営業日はホームページをご覧ください。

 

榛原さんのホームページはこちら

⇒ http://www.haibara.co.jp/

 

 

築地本願寺カフェTsumugi 昼食もいただけます

[銀造] 2018年2月 6日 12:00

築地本願寺のインフォメーションセンターの建物の中に併設された、御食事も出来るカフェです。

メニュを開くと、『"鳥がたくさんの夢をつむいでいる。"自由に空を飛ぶ鳥たちが集めてきたお気に入りがいっぱい詰まった鳥かごのように、よく吟味して集められた上質なものを愉しむことが出来る感度の高い女性たちのためのコミュニケーションスペース。』とのご挨拶です。 築地駅一番出口から直結です。 

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店内に入ると、軽やかなジャズが流れています。

今日は、「漬けまぐろごはんと鯛出汁とろろ昆布うどん」@1,300円(税別)を頂きました。鮪の漬け丼はまずまず、 関西風のはんなりとした、おうどんでした。 ゆったりとした本願寺様ならではの時間をお過ごしください。

 

 

日本橋中洲地区

[五月雨ジョージ] 2018年2月 6日 09:00

 日本橋中洲(にほんばしなかす)は、日本橋本町や日本橋人形町のように末尾に「町」は付きませんが、れっきとした東京都中央区の町名です。中州には「丁目」もありません。日本橋地区唯一の単独町名です。

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この中洲地域と、隅田川を挟んだ向こう岸(江東区)とはもともと「中洲の渡し」で行き来していたようです。現在は清洲橋で結ばれています。ちなみに「清洲橋」の名前は建設当時の両岸である深川区の深川清住町(現・江東区清澄)と日本橋区中洲町から付けられました。

 

 中洲はかつて文字通り隅田川の中洲でした。この一帯は「みつまた」(三ツ俣など)とも呼ばれましたが、どの流れを指してそう読んでいたかには諸説あるようです。いずれにしても隅田川、箱崎川、浜町川に囲まれた「中洲」であったことは間違いないようです。

 浜町川が隅田川に注ぐ付近は「浜町河岸」と呼ばれ、また、砂洲の埋め立てにより浜町と地続きになり、大川中洲新地が整備され、富永町と号し、江戸中期は花街のような賑わいを見せていた時期もあったようです。
 その後、度重なる洪水などから葦の生い茂る浅瀬に戻ったりしたようですが、明治になると再び埋め立て整備が行われ、真砂座が出来たりして料亭がひしめく娯楽街になっています。しかし、この繁栄は長く続かず、大正年間の頃には早くも衰退したと言います。

 

【江戸時代の中洲】
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 江戸時代の中洲の様子は、歌川広重の図絵で想像することができます。この絵は、江戸の名所を描いた広重の10冊の絵本の中の1枚。絵の右上にある詞書には

「新大橋より南の方、むかしこゝに茶坊ありて、その賑ひ、はんかたなし。今とり払ひて洲となれど、猶月雪の風景よし」

と紹介しています。

 
【金刀比羅宮】
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 清洲橋北西の袂には金刀比羅宮があります。境内を取り巻く玉垣には、歓楽街だったことを忍ばせる料亭の名がたくさん刻まれています。

金刀比羅宮3.JPG

 
【真砂座】
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 真砂座の劇場跡の石碑は、マンションのエントランス脇の植栽の中に、ひっそりと佇んでいます。この真砂座は、夏目漱石の『吾輩は猫デアル』が小山内薫によって脚色され演劇「猫」として上演された劇場としても知られています。「真砂座跡」の石碑の横には碑文には以下のように書かれた石板があります。

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  夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』は、
  小山内薫によって脚色された。
  伊井蓉蜂らが出演し、
  日本橋区中洲の真砂座跡で、
  明治三十九(一九〇六)年
  十一月三日から三十日にかけて
  上演された。
  平成十五年十月吉日
   早稲田大学第十四代総長
      奥島 孝康 識

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【女橋】
女橋1.JPG 

 中洲の町と隣の浜町との間にあった箱崎川。昭和46年(1971)埋め立てられて、現在は頭上を首都高が走っていますので、水路跡の面影が確認できます。
 その箱崎川には男橋と女橋、二つの橋が架かっていました。
 マンションの入口に埋め込まれた記念プレートには、以下のように刻まれています。

 

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おんなはし

     由来

           おんなはし
    女橋伊井を見むとてそのむかし
            幾たび渡りい往きける子ぞ
    真砂座の幟の音に誘はれて
            君もかへらぬわれもかへらぬ
    かにかくに中洲風流は
            おもしろし声舟もたまたま来て
    宵ながら闇ふかき夜は男橋
            君とわたりてゆくへ知らず
                吉井 勇「大川端」より
                        昭和二年

 

 日本橋中洲は明治四十年版「東京安寧」によれば「浜町三丁目
東南の大川中に築立たる市街地。安永元年一旦填築して三町余の
地を得、三股富永町と称せしが寛政元年之を撤し、後漸次洲渚と
なし、?葦叢生の地たりしが、明治十九年再び埋築して、今の町
名を加ふ」と記されている。
 当時、中洲は小さな島の町で、浜町との間には箱崎川をまたい
で、男橋と女橋の二橋が架せられていた。
 その後昭和の戦災で男橋は焼けおち女橋だけとなったが、箱崎
川埋立と高速道路の建設により姿を消した。
            女橋 明治三十四年十一月創架 木橋
               長さ二十一間 幅三-四間
            経費 六五九五円七〇銭
            その後昭和四年六月に架替
                 中洲青年部 吉田  尚
                       吉沢 伸明
                     贈   正志会一同

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