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越前堀の石垣石

[織衣舞] 2011年9月22日 16:45

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江戸時代、このあたりは越前国福井藩主 松平越前守の屋敷地であったようだ。

屋敷は三方が堀に囲まれていたため、
これが「越前堀」と通称されていたらしい。

越前堀の護岸は石積だったらしい。


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明治になり徐々に堀は埋められ

関東大震災後に大部分が、戦後に完全に埋めたてられました。

町名が新川となり現在に至っている。


 

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御菓子匠 「梅花亭」(旧霊岸島)の亜墨利加饅頭

[滅紫] 2011年9月 9日 08:30

9月8日は二十四節気の一つ、「白露」で「この頃から秋気が漸く加わる」と云われていますが、残暑はまだしばらく続くようです。とはいえ朝夕は少し涼しくなってきたような。・・こんな時期、仕事が一段落しホッとした時にやはり欲しいのはちっとした甘味。今回ご紹介するのは寛ぎのティータイムに、抹茶・緑茶・紅茶そしてコーヒーにも相性ぴったりの和菓子です。


100_0214.JPG御菓子匠「梅花亭」は嘉永3年(1850年)に大伝馬町で創業の老舗で東都のれん会加盟店のひとつです。
因みに東都のれん会加盟の「和菓子」のお店は5軒ありますがそのうち3軒は中央区にあります。
現在の望月生知枝様が七代目。創業者は嘉永6年(1853年)に初めて和菓子を現在のパン釜のような釜で焼いた焼き菓子「亜墨利加饅頭」を創作。折りしもペリー来航の年で大変話題となり大ヒット。2代目は「銅鑼焼き」を創出(平成10年から復活)、6代目は「梅もなか」、黒餡で皮の上にメレンゲをかけて焼いた「仏蘭西饅頭」を考案。
創業者は「生来の新しもの好きの上に無類の甘いもの好き」だったとのことで、創業者のこのDNAが後継者に引き継がれていたのか、代々時代に合わせて創意工夫を凝らしてきた結果、何れも現在まで続いているロングセラー商品となっているのには驚嘆です。


お三時に久しぶりに一服点てて亜墨利加饅頭をいただきました。「栗饅頭の原型」だと伺いましたが大きさといい、甘さといい程の良い上品さです。「お客さまに快いゆとりを味わっていただくこと」「庶民性の中に上品さを」がお店の言い伝えと伺い納得。江戸末期に創出されたお菓子を160年近い後世の私たちがいただくことができるという不思議さと老舗の継続の重みを感じながら、歴史の変遷にしばし思いを馳せました。


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亜墨利加饅頭、仏蘭西饅頭、銅鑼焼きです。

銅鑼に押し付けて焼いたように薄い皮に餡が挟まれています。



梅花亭のある新川2丁目は、以前は霊岸島といわれ、地名の由来は寛永元年(1624年)雄誉霊厳上人が葦原を埋め立てたところに霊厳寺を創建したことによるといわれています。霊厳寺は明暦の大火(1657年)で延焼し、その後万治元年(1658年)に現在の江東区白河に建替えられました。こちらには松平定信や大名の墓も多くあることで知られています。歴史的な由緒のある地名がどんどんなくなってしまい、この「霊岸島」も今はありませんが、歴史好きや時代小説好きの方には歌川広重の「東海道五十三次」の版元保永堂や河村瑞賢の屋敷があったところとしてご存知の方も多いことでしょう。梅花亭も当時「霊岸島といえば梅花亭」といわれる程地名と密着していたとのこと。お店の住所に(旧霊岸島)と記載されているほど今でもこだわりをお持ちと拝察いたしました。

帰路に「霊岸島」の名称を使っているところを発見。

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「霊岸島防災センター」という比較的新しい建物のようですが、何だかうれしくなって写真を撮ってしまいました。

傍の亀島橋を渡ったところに忠臣蔵の「堀部安兵衛」の碑もあります。



梅花亭さんが大伝馬町のべったら市の時期だけ作る「切り山椒」と「喜利羊肝」は江戸名物のひとつになっているとのこと。その時期にまた粋な女将さんにお目にかかりにお邪魔することにしましょう。


梅花亭:中央区新川2-1-4(旧霊岸島) TEL3551-4660-4039 

     日比谷線。東西線茅場町下車3分

深川不動尊仲見世店 TEL3641-3528

日本橋小伝馬町店 TEL3661-7604

定休日:日祝(深川店は無休 )営業時間:09:00~17:00

 

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