[北遊人]
2011年3月30日 08:30
甘酒横丁商店会の桜祭りも、此のたびの大震災のため急遽中止となりました。
今日は、だいぶ暖かく感じましたので浜町川緑道へ桜の花を探しに行ってきました。
中程の弁慶像のところの木に一輪見つけました。
わかるでしょうか。
真下の弁慶像です。
人形町は、江戸時代芝居街として栄えていたことを記念しここに"勧進帳"の弁慶像を設置したとのことです.後方にある木の門は冠木門だそうです。
この緑道には北側に"漢方医学復興の地"の碑があります。
チョット分かりにくい所かもしれません。
桜の方は、来週の半ばというところでしょうか?
清洲橋通りを横切り、浜町公園へ向かいます。
明治座前の公園入口の並木道の垣根の"赤目"が大分色づいてきました。
木瓜も満開です。
公園の桜はまだ一輪も咲いていませんでした。
小さな池に子供たちが集まっているので覗いてみました。
池の中を見てください。
そうです。オタマジャクシです。
目を土手の方へ向けますと、真っ白な"雪柳"と赤い"花桃"が桜の花の先がけとして覇を競っていました。
[小江戸板橋]
2011年3月28日 09:00
「新大橋」は、隅田川に架かる斜張橋で、中央区日本橋浜町と江東区新大橋を結んでいます。
昭和52年3月竣工。
橋の中央の橋柱には、安藤広重の江戸名所百景「大はし あたけの夕立」の絵と、明治45年架設の旧橋のレリーフがはめ込まれています。
時代を継いで移り変わった「新大橋」の姿が、そこに描き出されています。
橋の西詰北側に、大小二つの碑があります。
巨大な石碑は、関東大震災の「避難記念碑」。
左側の小さな石碑は、「人助け橋のいわれ」の碑です。
新大橋は、かつて「人助け橋」と呼ばれ、親しまれていたそうです。
大正12年9月1日に発生した関東大震災の折、隅田川に架かる多くの橋が火災で焼け落ちました。
その中で「新大橋」は、火災をまぬがれ、多くの人命を救い、避難路としての役割を果たしたのです。
明治45年架設の旧橋の時代です。
火災を避けて避難する人々は、荷物を携え、逃げ道を求めて、橋に殺到しました。
いかに鉄製の橋といえども、荷物に火が移れば、燃え盛る炎は一気に橋上を走ります。
誘導に当たった警察官は、体を張って荷物を捨てさせ、延焼防止と避難路の確保に努めたといいます。
小さな石碑は、その勇敢な行動をたたえて建立されました。
職責をまっとうした警察官の行動が碑文として残るなど、なかなか無いことです。
この警察官の陰に、誘導、救助、消火などに、身命をなげうった、多くの人々がいたことでしょう。
とっさの判断で、群集を適切にさばいた警察官が、それら名も残らないけれど、使命を果たし、支えあった人々の代表として、碑に刻まれているのだと思います。
大震災の中で、困難に立ち向かっている多くの人がいます。
「がんばれ!」と強く念じます。
[坂の上のねこ]
2011年3月28日 08:45
昨年9月のブログ記事でご紹介した、リバーサイド・オータムフェスタの抽選会で当たった「東京水辺ライン」のチケットを利用して隅田川クルーズを体験してきました。本当は桜が咲くのを待ってから・・と思っていたのですが、使用期限が迫ったこともあり、ひと足早いお花見クルーズとなりました。
私たちが選んだのは「両国・お台場クルーズ」コース。越中島から乗船して、聖路加ガーデン前→浜離宮→お台場海浜公園→浜離宮→聖路加ガーデン前→越中島→両国→桜橋→両国とぐるっと一周します。
他にも様々なコースがあり、季節によって臨時船もあります。詳しくは東京水辺ライン のウェブサイトをご覧下さい。
私たちが乗船した「さくら」
行きのお台場までは、暖かい船内でのんびり。ゆったりした座席は心地よくて、思わず居眠りしそうに。帰りは写真を撮ろうと、寒さをこらえて船上デッキに出ました。
ご存知レインボーブリッジ。橋を支える左右ふたつの主塔の間の距離は、根元の部分よりてっぺんの部分の方が11ミリメートル広くなっていますが、これは地球が丸いからなのだそうです。スケールの大きさを感じますね。
(上)勝どき橋、中央大橋、清洲橋と、上流に向かっていくにつれ、スカイツリーがだんだん大きく見えてきます。
(下)桜橋ではこんなにも間近に
途中、たくさんの橋の下をくぐりました。そのうち、駒形橋、蔵前橋、厩橋の3つは、関東大震災後の復興計画の一環として建設されたそうです。この時期、隅田川には他にもたくさんの橋がかけられました。東日本大震災から2週間あまり。復興までの道のりは困難ですが、90年前の人たちが大震災のあとにこうしていくつもの橋をかけたことを知り、「明日に架ける橋」という曲を思い出しながら、青空にそびえるスカイツリーを見上げていました。