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佃島の由緒

[kimitaku] 2012年2月24日 08:30

  

 佃島は、中央区の南にあります、中央大橋、佃大橋、相生橋が作られて、とても便利になりまし

た。 町に入ると、昔からの佃煮屋さんと、家並みが風情をそそります。 

 高層ビル群も立ち並び、ほんの少し前まで、渡船でしか、渡ることができなかったこと

が、信じられないくらいです。 P1010164-1.jpg

 朝早く、住吉神社を参拝しました。

宮司さんが竹箒で、境内を掃き清めています。 ザーッザーッと言う音が規則正しく聞こえてきて、

木々の枝では小鳥が囀っています。シーンとした静けさからは、周りの喧騒がウソのようです。

 佃島の由緒を調べることにしました。

 

 「本能寺の変」 天正10年(1582)

 織田側についていた徳川家康が、本能寺の変に際し、堺から三河に向かう途中、摂津佃の漁民、

森孫右衛門たちが、漁船を差し向け、また小魚の塩煮を差し入れたのが、家康との縁の始まりだそ

うです。 道中では、茶屋四郎も協力を惜しまなかった一人です。

 「江戸入府」 天正18年(1590)

 家康が、江戸入府」の際に、森孫右衛門以下漁民30名に声を掛け、江戸でお城への魚を献上さ

たそうです。その際住まわせた場所は、安藤対馬守 (矢張り、変の際に同行して、森と顔見知り)

の屋敷内です。

 その後、彼らは、大阪冬の陣 夏の陣で食料を提供、また、密使として活躍しました。 また

かれらは、その後も永きに渡り、海からの侵入者の警護も行います。

 家康は、非常に恩に報いる人で、その後、森孫衛門以下佃の漁民は、江戸で、特権を持つことに

なります。

 「地獄網」

 大阪では、江戸よりはるかに漁法が進んでおり、この地獄網は、 水手(かこ)6人で船の乗り、7

艘で沖に出て、右手3艘 左手3艘 で網を手繰り寄せ、魚を一網打尽にして捕る漁法です。

 この漁法のおかげで、大量の魚をお城に運ぶことができました。

「白魚漁」

 白魚の頭の黒い部分の模様は、葵の御門に似ているそうで珍重されました。白魚は、伊勢から移

植して、それを佃の漁民に捕らせました。いまでも年一回、「白魚献上祭」が行われています。

「本小田原町 (いまの」日本橋川の左岸)に店を出す。} 

 慶長18年(1613)にお城への供給以外の魚を城外で売ることを許され、これが、日本橋魚河岸の

基礎となります。 

 

「佃島」

二代将軍秀忠のころ、隅田川下流の干潟の埋め立てが認められ、佃の住人が自力で埋め立てたの

が、今の佃

P1010165 1.jpg

治になって、埋め立ては続き、新佃、月島が作られていきました。写真は佃の人たちで

す。古武士の風情が感じられませんか。

 

 

 

 

 

 

 

真砂座跡碑

[北遊人] 2012年2月21日 08:30

 中央区循環バス、"江戸バス"北循環コース"中州"で下車しますと、道路沿いのマンション脇に"真砂座跡"の碑が見えます。右肩には"漱石「猫」上演の地"の添え書きがあります。

Masagoza 003.JPG

 右側の説明を読みますと、

  夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。

  伊井蓉峰らが出演し、日本橋区中洲の真砂座跡で、
  明治三十九年(1906年)十一月三日から

  三十日にかけて上演された。

    平成十五年十月吉日

     早稲田大学十四大学長 奥島孝康 識    とあります。

 

地域案内図 AREA MAP を見ますと、日本橋浜町から清洲橋へ向かい、高速下を抜け隅田川近く、右に折れた所です。

Masagoza 001.JPG

 真砂座は、明治半ばからは新派の名門劇場だったようです。も一つの劇場は、"本郷座"とのこと。座頭は、伊井蓉峰であり、小山内薫は脚本や演出を担当していたとのこと。

 小山内薫は、その後市川左団次と結びつき、自由劇場、築地小劇場などを舞台に活躍します。


説明版では、明治39年の漱石の"猫"について書かれているが、37年に小山内薫訳「ロメオとジュリエット」、38年には、尾崎紅葉の"金色夜叉"が上演されている。

永井荷風は、若いころ隅田川で泳いで水着姿で真砂座の芝居を見物している、とのこと。


この頃は花街であり周辺は賑っていたことでしょう。

ここから清洲橋通りへ出ると、向かい側に鳥居が見えます。

金刀比羅宮のようです。

Masagoza 007.JPG

 右側の碑を覗いてみると、この地にあった船玉琴平宮が関東大震災で焼け、昭和29年再建とある。


 入って左手に"記念碑"がある。

Masagoza 015.JPG

 後ろに廻ってみると、

昭和61年に建てられたもので"中州築立百周年の記念碑"と判る。

表の題字は 鳩山威一郎 の書とある。

説明書きを紹介する。


  中州は特別な歴史を有する。

 江戸時代の中州は須磨明石に勝る江戸随一の納涼観月の名所であった。

 明和年間に築立され三股富永町として繁栄したが寛政年間には埋め戻された。

 明治十九年、中州は再び築立されて旧日本橋区中洲町となる。

 明治、大正、昭和時代を通し、大川端の地として小山内薫等多くの文化人が往来し、

 その作品の舞台となる。

 明治の築立から本年四月で百周年を迎えるにあたり、ここに記念の碑を建立する。

    昭和六十一年八月吉日

 

周囲の塀に賑いの跡が見られる。

Masagoza 021.JPG Masagoza 020.JPG 現在は、箱崎川も埋め立てられて、高速道路下の公園にかつての菖蒲橋の名残りの"あやめ"の名が残されているのみです。 

 

 

 
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