「東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹とたわむる」
「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」
などの歌で知らぬ人のない程有名な明治期の詩人・歌人の石川啄木は岩手県日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸」に曹洞宗住職の長男として明治19年(1886年)2月20日に誕生しました。
昨年から「国際啄木学会」など関連イベントが始まっていますが、没後100年にあたる今年は縁の地の函館や釧路でもまた沢山の企画があるようです。
「恋と波乱に満ちた生涯」も良く知られているところですが、ちょっとおさらいすると、
― 明治35年上京。与謝野鉄幹の知遇を得て「明星」に詩を発表。20歳で処女詩集「あこがれ」を刊行。「天才詩人」と注目されたが、その後は職を求めて北海道各地を転々と流浪。41年再度上京、42年「東京朝日新聞」の校正係として就職。43年「一握の砂」発刊。実生活に根ざした1首3行書きの詩集は、没後発刊された「悲しき玩具」とあわせ近代短歌史上不朽の生命を持つ。45年没-(新潮日本人名辞典より)
郷里の先輩であるアイヌ語研究で名高い言語学者の金田一京助氏が蔵書や家財を処分してまで金銭的援助を惜しまなかったのも良く知られていますが、始終金の無心にくる啄木を子息の金田一春彦氏が「石川五右衛門の子孫かと思った」というのも有名な話のようです。お金を借りては放蕩三昧の生活をし、周囲からは「疫病神」のように思われていたらしいのですが、朝日新聞に就職してからは安定した生活になり(なおかつ借金をしていたそうですが)、歌の才能を評価され「出来るだけの便を与えるから自己発展をやる手段を考えてくれ」と当時の社会部長に言われた話が「啄木記念館」のHPにありました。そういえば昨年上演された「ろくでなし啄木」でも生活者としてはろくでなしの、でも愛すべき人間として啄木が描かれていました。
この朝日新聞時代に作った「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」(初出東京朝日新聞明治43年5月5日号)の石碑が朝日新聞社の跡地に立っています。「没後100年」毀誉褒貶甚だしい歌人の短い波乱の人生に思いを馳せてみるのもいかがでしょうか。因みに昨年の「国際啄木学会」のテーマは「新しき明日、新しき啄木」でした。
歌碑は銀座6-6-7
朝日ビル(サンモトヤマが入っています)前の
路上にあります。