銀座六丁目の銀座朝日ビル建替工事現場に文豪夏目漱石 (1867-1916) が現れました。現場の仮囲い、並木通り側とソニー通り側の両面に漱石の肖像と小説『三四郎』、『明暗』の挿絵 (名取春仙画) が描かれています。
ここは旧瀧山町、漱石が入社した東京朝日新聞社のあった場所 (現・銀座6-6-7) 。並木通り車道寄りには同社の校正係だった石川啄木 (1886-1912) の歌碑があります。ふだんはこれをながめて通りすぎる人も、今は向かいの漱石に目を奪われているようです。
漱石は、明治40年 (1907) 帝大・一高の教職を辞し、東京朝日新聞社に入社します。当時の社会的評価の差から、世間を驚かせた転身でしたが、「新聞屋が商売ならば大学屋も商売である」、「何か書かないと生きている気がしない」と、敢然として文芸創作の道に進んでいきます。『虞美人草』を皮切りに、『三四郎』『こころ』・・・そして絶筆未完の『明暗』に至るまで朝日新聞連載小説として世に送り出します。また、文芸欄を主宰して新進作家を推挽、発表の場を与えました。出社の義務はありませんでしたが、水曜日の編集会議に出てくると、口数は少ないが、すました顔で思いがけない警句を吐いて皆を笑わせ、賑やかな会議になったそうです。
私・与太朗は、漱石と中央区の関わりについて過去二度ばかりこのブログに書かせていただきましたが、その際、区内で最も漱石とご縁の深い重要なこの場所に、彼を偲ぶものが何もないというのが残念でたまりませんでした。二年後、工事が済めばこの囲いも無くなります。そのときには新しく恒久的なモニュメントが造られることを念願しています。来年2016年は漱石没後100年、再来年2017年は生誕150年、大きな節目が近づいています。
【つけたり】その一 石川啄木の歌碑 (写真右)
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
漱石の『それから』『門』の連載は、啄木在社時に重なります。啄木も校正を担当したことでしょう。
【つけたり】その二 拙文二つ
「漱石の足あと in 中央区」 (2012.10.31)
「文豪と丸善 (その二) 夏目漱石と万年筆」 (2013.3.14)