東日本にお住まいの方であればおそらくご存知、天乃屋さんの歌舞伎揚です。
この個包装の裏を見てみると、
「このおせんべいは丸い形と四角い形があります」と書いてあります。
歌舞伎揚は、丸形や四角形の歌舞伎の定紋をデザインした生地を揚げているのだとか。時代とともにやわらかく揚げるようになり、模様が見えなくなったのだそうです。個包装に付されている四角形が歌舞伎の定紋のひとつで、「三升(みます)」といいます。
一方こちらは、お饅頭で有名な中央区明石町の老舗・塩瀬総本家の「袖ヶ浦最中」。
この袖ヶ浦最中は一風変わっていて、最中の皮とあんこが別々。食べるときにワクワクしながら合体させ、サクサクした食感が味わえる、という一品。明治期の9代目市川團十郎が考案したそうで、別名は「團十郎最中」。パッケージの「三升」は、市川團十郎家の定紋なのであります。
9代目團十郎と言えば、私が2月に「昭和7年の冊子」を通して書いた記事 の歌舞伎役者。表紙が「三升」の定紋のデザインになっているこの冊子は、昭和7年・歌舞伎座での9代目團十郎30年追遠興行の時のものです。
昭和7年。この年は市川宗家にとって転機になった年と思われます。当時の市川三升(さんしょう・没後に10代目團十郎の名が贈られる)によって、市川團十郎家の発祥が解明された年だからです。
冊子にはその團十郎家の発祥が載せられています。それは、團十郎の先祖は戦国時代に甲斐の武田家配下に仕える侍だった、という甲州説。
市川團十郎家の発祥は今もさまざまな説があります。甲州説は昔からあったようなのですが、それを裏付ける家系図が発見されたのが昭和7年でした。
その市川團十郎の発祥の地は、山梨県の市川三郷町なのだとか。そこに「歌舞伎文化公園」があるということを知り、4月の花見で山梨県を訪ねた際に立ち寄ってみました。
「歌舞伎文化公園」は甲府盆地を見下ろす景色の素晴らしい高台にあり、戦国時代には武田家の重臣だった一条信龍(信玄公の弟)のお城がありました。團十郎家の先祖はこの人に取り立てられていたようです。
この公園には資料館、そして市川團十郎発祥之地記念碑があります。1980年代、当時の海老蔵が12代目團十郎を襲名するにあたりこの記念碑が建てられました。ずっと果たせなかった10代・11代目團十郎の願いがこの時に叶えられたのだそうです。
せっかくなので昭和7年の冊子の内容と資料館で得た情報を合わせてみると、初代團十郎までの甲州説は、
市川家の祖先は甲斐国武田家の侍である堀越十郎だった。
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三増峠の戦いで武功を上げ、一条信龍の城の近くに知行地が与えられた。
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武田家没落の後、一族が信仰していた不動明王を頼りに成田不動尊に救いを求め、下総国埴生郡幡谷村(成田山の近く)に移り百姓となった。
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その孫は江戸に出て和泉町(現在の中央区人形町付近)に住み、幡谷十蔵と名乗った。
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十蔵は一人の男子を儲け、その子は海老蔵と名付けられた。
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和泉町の隣町に中村座と市村座があったので芝居に没頭するようになり、市川段十郎と名乗る役者となった。
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隈取りや見得(みえ)などの誇張的表現を用いながら見せる「荒事」の演技様式を創始し、名を團十郎と改め、江戸歌舞伎をリードしていく存在となっていく。
という流れなのですが、ここに来て面白かったのは、「三升」の定紋について書かれている説明板。三升の定紋についても様々な説があるようなのです。
昭和7年の冊子には、
「初代團十郎が不破判左衛門を勤めた折に、稲妻と三升を縫い伏した衣装を用いた時から、定紋が三升と改められた。」
と書いてあるのですが、公園の説明板には違うことが書かれています。
三升の紋は、大・中・小の3つの「升(枡)」を入れ子にしたデザインですが、
真ん中の枡は・・・1升分の「京枡」(お米の1升=10合)、
小さい枡は ・・・5合分の京枡(半枡)、
大きい枡は ・・・3升分に値する「信玄枡」
なのだそう。
三升枡や甲州枡とも言われる信玄枡と、2つの京枡を合わせると、綺麗な「三升」の紋になるという説明です。これは、團十郎の発祥が甲州であることを裏付けるものだといいます。
その他にも、
「三升家紋の四角が團十郎の團という字に似ているから」
「ますます繁盛(枡枡半升)とあやかった」
と、いろいろ書かれており、ネットで探してみても、
「團十郎の先祖が武功を上げた三増峠の戦いの名に由来」
なんていうのも出てきます。
「成田山に向かったのは信玄公が不動明王を信仰していたことにも通じている。」
「荒事の荒々しさは、甲州弁から生まれた。」
「海老蔵の名は、 武田の赤備えの甲冑が赤く殻を被っている海老に似ているところから生まれた。」
と、信玄公に関連する團十郎ロマンは探してみるといろいろと出てくるのであります。
團十郎が信玄公に関わりがあることは驚きでしたが、謎が多いゆえに、これまでに生み出されてきた歴史ロマンの多さにも驚きました。
元々信玄公にある戦国時代の大きなロマンに、團十郎のロマンが重なって、さらにロマンが広がったのだろうと思いますが、こうしていろいろな人が研究したり想像したりしてきたことを見聞きすることは、歴史の楽しみのひとつなのだと感じました。