今年の3月に日帰り旅行で訪ねた軍港の街・横須賀。旧日本海軍の記念艦三笠の展示や、日米艦船を見物する軍港巡りなど、この街独特の観光スポットがあり、とても楽しい街だった。
横須賀海軍カレーを食べながら、東京中央区の「築地」も昔は海軍の街だったんだよなぁ、と思い起こしてみた。確か今の築地には、石碑や説明板が残っているだけ。横須賀と比べてしまうと寂しい感じがしてしまう。
しかし石碑には、「石碑にしよう」とした人の大きな思いが込められているものである。
石碑を建てた理由の多くは、無くなるもの、無くなったものを偲ぶ人がいて、その思いを後世の人に伝えたかったから、ということなのだろう。
なので石碑を見るときには、建てた人が伝えたかった思いを、「感じてみる」ことが必要なのかもしれない。
そう思いながら、築地の海軍関連の石碑を巡ってみることにした。
築地の国立がん研究センターの敷地には、2つの旧海軍関連の石碑が仲良く並んでいる。
左「海軍兵学寮跡」と右「海軍軍医学校跡」。
石碑を建てた人の思いは、石碑のどこかに記されているものだ。
フェンスに密着している「海軍兵学寮跡」碑の裏側を頑張って見てみると、何やら文字が書かれている。概略は次のような感じである。
『海軍兵学寮沿革
・1871(明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築
・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称
・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転
1934(昭和9)年5月建立』
この碑が建てられたのは、海軍兵学校が江田島に移転した時ではなく、その46年後であった。
築地は明治初頭から海軍の街として栄えてきたものの、1923(大正12)年の関東大震災で多くの海軍施設を失ってしまう。そして帝都復興で、この海軍用地に市場が移転してくることに決まるのである。
築地の中央卸売市場の開場は1935(昭和10)年。なのでこの碑は、市場が出来上がった頃に、築地から離れていった海軍施設を偲んだ人によって建てられたことが想像できた。因みに碑名を記した齋藤實は、時の内閣総理大臣で、この学校の卒業生である。
一方の「海軍軍医学校跡」碑。医学校は終戦の1945(昭和20)年まで続いた。石碑の文字は、最後の校長の神林美治軍医の筆であるということなので、学校が無くなってしまったことを偲んで建てられたのだろう。
海軍の医学教育は、1873(明治6年)に築地で海軍病院付属学舎として始まっている。その後、いろいろな変遷を辿ったものの、多くの医療関係者を育て、終戦を築地で迎えている。
関東大震災前の大正時代の頃に、かつての築地川の采女(うねめ)橋辺りから眺められる築地方面の建物があった。
采女橋があるところは昔、築地川と築地川東支川の交差点だったそうだ。東支川に架かる「北門橋」のむこうに見えるのは、海軍大学校の海軍参考館という建物だった。
築地の海軍施設へ行くときは、この北門橋を渡ったのだろう。今はもう、東支川は完全に埋め立てられていて、川が流れていたという面影はない。
采女橋の袂の高速出入口の隣の道は、かつて海軍の敷地に繋がる「北門橋」が東支川に架かっていた辺り。海軍の敷地への橋を渡るかのように道を進んでいけば、この海軍の2つの石碑を見つけることができる。
さて、築地の海軍関連で外せない石碑に向かってみる。築地場内市場の魚河岸水神社遙拝所にある「旗山」の石碑である。
この石碑は、築地市場開場後の1937(昭和12)年に建てられた。この石碑の前面に書かれている文章は少し薄くなっている。読むのが難しいので、いい加減かもしれないが、概略はたぶんこのような感じである。
『・ここは徳川時代に松平定信の別邸「浴恩園」の景勝地に設けられた築山の一部だった。
・1869(明治2)年に海軍関連施設がこの地に置かれた。
・1872(明治5)年に海軍本省設立後、海軍卿旗をこの丘に立て、「旗山」と呼んだ。
・この地はまさに海軍経営の大元であり、その発祥の地といってよい。』
と、この地が海軍発祥の地であるいわれが語られている。
碑文はまだ続いていて、読むと石碑が建てられた時の思いが伝わってくる。
『・それ以来長い年月あった海軍施設が移転していき、わずか1、2の官庁が残っているのみである。
・地形はだいぶ変わってしまい、昔の面影を見つけ出すのも難しくなってきた。
・この旗山の地に碑を建てて思い出となるように残すことにした。
・1937(昭和12)年1月5日 海軍大臣 永野修身 』
今年の10月に豊洲へと移転する築地の市場。去っていくことを寂しいと思う気持ちは、築地から海軍施設が去っていった80数年前も同じだったようだ。
市場の移転に伴い、魚河岸水神社の遙拝所も豊洲へと移転していく。しかしこの旗山の石碑は、建てられた時の心情と共に、ここ築地の地に残り続けていくのだろう。
そして最後に、勝鬨橋の袂にある「海軍経理学校之碑」の石碑である。
鏡面仕上げで、勝鬨橋も碑面に映すこの石碑は、碑文が分かり易くて読む人に優しい。
学校は1874(明治7)年に芝山で海軍会計学舎として開設され、その後築地に移転。日露戦争後の1907(明治40)年に海軍経理学校となり、震災後、今の築地市場の立体駐車場辺りに移されて終戦まで続いた。
石碑は1976(昭和51)年、戦後30年を機に、学校の同窓会によって建てられている。
この石碑には裏側にも文字が刻まれている。それは、この学校で学んだ人たちが見ると喜ぶ仕掛けになっている。またその内容は、学校がここ築地にあった頃の情景が伝わってくるものである。
ここでは内容を書かないことにしておこう。
場外市場は築地に残り続ける。市場で楽しんだ後に、隅田川を眺められる勝鬨橋の袂で、石碑の裏を見て感じ取ってもらえたらと思う。
築地には、海軍関連の史跡はまだある。最近では史跡の碑も案内板のような形で作られることが多くなった。
形にもよるかもしれないが、石碑は古くなっても保存しようとする心が働き、後年まで残り続けるものだ。そして建てた時の素直な心情が碑文に記されていれば、後年に読まれた時に味わい深いものが伝えられる気がしてならない。海軍の石碑を巡ってみて、そう感じた。
もしかしたら、こういうブログ記事も石碑みたいなものなのかもしれない。何かに感動したり、残念に思ったりしたことがあったら、後年に誰かが読んでくれることを信じて、素直にその時の心情を書き記しておいたほうが良いのではないかと思った。