注*: 前月以前のブログを参照してください。
「勝どき・晴海は月島だった」
/archive/2018/05/post-5168.html
「水上生活者(月島地区)」
/archive/2018/06/post-5158.html
水上生活者の増加に伴い、福祉厚生を考える必要が出てきました。福祉向上のため東京尋常小学校が1930年(昭和5年)月島8丁目(中央区勝どき1-11)に開校しました。隣が月島小学校の分校(現月島第二小学校=現勝どき1丁目にあるにも拘わらず、月島名がついています*)です。この分校は2号地(勝どき地区)の子供たちのために作られた小学校で、隣が日本倉庫で、斜め正面に鉄骨試験所がある行き止まりの通りの奥にありました。開校当時はまだ晴海通りも勝鬨橋もありませんでした。
開校時の間取りは、教室3ケ、寝室2ケ、事務室・食堂・寮母室・炊事室・洗面所などで構成され小さくまとまっていました。
開校時の生徒数は32人、教員は3人と校長・寮母1人、炊事婦2人という所帯でした。学級は1~2年ひとクラス、3年以上がひとクラスでした。翌年1931年(昭和6年)からは低中高の三クラス制になりました。
東京水上小学校は、開校後しばらくして東京市立水上小学校となり学童の数も少しずつ増加し、校舎も改築を重ねました。1941年第二次世界大戦の開戦と同時に、水上国民学校となりました。軍国主義に湧く世情の変化を受けて、子女の教育ではなく兵士育成のための場となり、同時に銃後を支えるための奉仕の場となりました。水上国民学校もまた、戦争遂行のための海員育成の場に変えられていきました。
1943年(昭和18年)4月1日、江東区深川浜園町に分校ができました。(昭和43年4月1日、浜園町は住居表示制度の実施に伴い、浜園町と塩崎町の名から「塩浜」となり、現在に至っています)戦争の悪化に伴い学童は茨城県新治郡に疎開しましたが、1945年10月25日には学校は再開されました。
水上生活者が暮らす船はセージと呼ばれる部屋が船底にあり、その大きさは2畳(6.6㎡)から3畳(10㎡)程で、家族があれば親子数人がここに寝泊まりしていました。ダルマ船は仕事場が転々と変わるので、子供たちは就学が難しく未就学児も多かったし、戸籍を持たない子さえいたという話です。
水上生活者の出身は千葉県が多く、戸籍を千葉房総に置いたまま船内で暮らすために、現住所がなく子息の就学もままならないこともあったようです。水上小学校の設置はこのような状況を解決するために設置されたともいえるでしょう。
水上小学校は全寮制ですが、子供たちは週末だけ船に帰りました。週末、子供たちにとって悲劇が起こることがありました。「自分のなつかしい家(船)がみつからない」停留している場所にセージが見つからないことがありました。そのようなときには、子供は憔悴して学校に戻ったということです。しょげかえった子供達の様子が目に浮かぶようです。