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◆ 隅田川・清洲橋の「女性的な魅力」

[隅田の花火] 2015年10月28日 09:00

先日、勝鬨橋の脇にある 「かちどき・橋の資料館」に久しぶりに立ち寄ってみました。

この資料館は、勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修して作られましたが、今年で10周年を迎えたそうです。

 

帰り際に、資料館のおじさんから10周年記念の限定ポストカードをいただいたのですが、嬉しくなった私はいい機会と思い、隅田川テラスを歩いた時にいつも思う疑問について、おじさんに質問をしてみました。

 

お聞きしてみたのは、「清洲橋」。

s_hanabi26-1.jpg関東大震災後の復興事業で造られ、国の重要文化財にもなっている吊橋(つりばし)です。

同じ復興事業で造られた「永代橋」が男性的といわれるのに対し、この「清洲橋」はそのフォルムから『女性的』といわれ、隅田川の橋の中でもたいへん人気があり、愛されています。

 

隅田川テラスを歩くといつも私の目がいってしまうのが、この部分。

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遠目で見ると、吊橋の柱の下の方がくびれていて、華奢な感じでなんだかポキッと折れてしまいそう。吊橋の柱は、太くて地面に突き刺さっているイメージがあったので「何でこんなんで大丈夫なんですか」と、超ド素人な質問をしてしまいました。

 

やさしく教えて頂いたのですが、前提知識が無かったり力学の話が出てきたりして少々難解。もう少し勉強してからお聞きすればよかったと後悔をしつつも、下記を覚えて帰りました。

 

・この部分は「水」と「日」を合わせた『沓』という漢字で、『しゅう』と読む。

・沓により、橋の重さによる力の方向が橋脚への真下方向に伝わる。

・橋が沓に乗っかっているイメージ。

 

 

その数日後、図書館などで調べてみると、この部分は『支承(ししょう)』とよばれるところで、英語ではshoe(シュー)、シューズのシューという単語でした。『沓』は「くつ」と読むため、どうやら建築業界用語でこの『沓』という漢字を当てて「しゅう」と読んでいるらしいです。

 

橋の重みを下に伝える部材ですが、橋は温度変化で伸び縮みしたり歪んだりするので、この支承が「あそび」の役割を果たしてうまく調整することもするそうです。

s_hanabi26-3.jpg清洲橋にとってはまさしく沓(くつ)をはいて橋脚に乗っかっているイメージなので、この部分は人間でいうとアキレス腱とか足首なのかも。

とすると、女性の清洲橋さん風に言えば、「か細い 女性の足首」といったところになりましょうか。妙に納得してしまいました(ちょっと失礼カナ?)。

 

 

清洲橋は吊橋ですが、いろいろ調べてみると珍しいつくり方の吊橋で、「自定式吊橋」というタイプ。

 

普通の吊橋は「他定式吊橋」というタイプで、橋の両端にはケーブルを引っ張るための重り(アンカレイジ)があります。

(下の写真は他定式吊橋のレインボーブリッジで、白い巨大な塊がアンカレイジ。)

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しかし清洲橋のような「自定式吊橋」は橋桁の両端にワイヤーを繋げてしまうタイプ。橋の両端に重りが無いため、結果として、スッキリとした見栄えになるようです(因みに清洲橋はワイヤーではなく鋼製チェーンでこれも珍しいそうです)。

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また吊橋は、頑丈な太い柱が地面に突き刺さっているイメージを私はしていたのですが、「自定式吊橋」の場合は沓(くつ)をはく形になることにも関係しているようで、私の清洲橋の柱に対する見かたが誤っていました。

s_hanabi26-6.jpgこの「自定式吊橋」という橋の作り方が、清洲橋の「女性的な魅力」を生み出している、そんな気がしました。

まだ勉強は足りませんが、おじさんにお聞きしてからいろいろと知ることが出来たので、よかったです。ありがとうございました。

 

 

さて、隅田川ですが「橋の博物館」とも言われているくらいいろいろなタイプの橋があります。

11月1日(日)の 「中央区まるごとミュージアム」では何と、無料で船に乗れてしまうのですが、せっかくですのでぜひ船に乗って、いろいろな橋を見比べてみるのはいかがでしょう?

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「清洲橋」は、他の橋と比べるときっと女性的に感じられる所があるのではないかと思います。

s_hanabi26-8.jpgぜひ皆さまなりに「女性的な魅力」を見つけていただけたらと思います。

 

 

◆ 戦後70年・聖路加病院の日野原先生からのメッセージ

[隅田の花火] 2015年10月 9日 12:00

中央区明石町にある聖路加国際病院。この病院の名誉院長を務められる日野原重明先生が10月4日に104歳を迎えられました。日野原先生は太平洋戦争直前の1941年8月にこの病院に着任され、以来70年以上医療に携わり活躍されている方です。

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その日野原先生が今秋、「戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり」という本を書かれました。

この本を書店で見つけ、表紙の絵を見て一目気に入り気づいたらレジに並んでいました。中をパラパラと見てみると文字は大きな活字で印刷され、漢字にはふりがながふられています。そう、この本はこれからの未来を担う若い世代に向けて書かれている形になっています。

聖路加国際病院の歴史や日野原先生自身の体験を通して、戦争そして平和の尊さについて次世代に伝えていこうという日野原先生の思いが伝わってくるような内容です。

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聖路加国際病院は1902年にトイスラー博士により開設されて以来、キリスト教の精神を中心に据えた医療が行われてきましたが、同時にアメリカと深いつながりのある病院であるため、太平洋戦争の開戦前後から微妙な立場に追い込まれます。

開戦すると病院の名前は変えられ、十字架は取り外されました。病院だけではなく日野原先生自身にも疑いの目が向けられ、憲兵から尋問を受けたりします。そして終戦後は建物がGHQの管理となったりと、この病院は戦争という時代に翻弄されました。そのような歴史と体験が書かれています。

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また、よく築地界隈は聖路加病院があるおかげで大きな空襲を受けなかったといわれていますが、それを証明するようなアメリカ空軍機からばらまかれたビラなど、多くの写真がこの本に掲載されているのも特筆すべき点。若い世代だけではなく、老若男女・すべての世代が読めるような内容であると思いますし、中央区の戦時の歴史の一つとしてこの病院の歴史を知ることができるような内容にもなっています。

(下の写真は「かちどき・橋の資料館」に展示されていた隅田川の写真。改築前の旧館が写っていました。)

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この本を読んだ次の日、聖路加国際病院の旧館に足が向かっていました。中のチャペルに入るのも久しぶりです。

聖路加国際病院には、15年ほど前に銀座で心筋梗塞で倒れた義父の命を助けていただいたり、今年の冬には家族がお世話になったりと、私にとっても縁のある病院。特にこの旧館の前にある庭に来るとほっとする場所だったりします。

 

今は平和な空気が感じられるこの場所ですが戦時の痕跡が残っている所があります。

この旧館チャペルの入り口(写真左)の横の、この旧館が建てられた1930年代からある定礎石です。

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この石には、

「ST.LUKE'S INTERNATIONAL MEDICAL CENTER

DEDICATED TO THE GLORY OF GOD

AND THE SERVICE OF HUMANITY」

そして、「神の栄光と人類奉仕のため 聖路加国際医道院」と訳語が書かれています。

s_hanabi25-6.jpg旧館は90年代に改修工事が行われたので、この定礎石は当初は違う場所にあったそうです。この石には12個の釘穴の跡があるのですが、これが戦時の痕跡。憲兵隊にこの石を取り外すように強要されたため、その対応として薄い御影石で覆い隠した時の痕なのだそうです。

 

また旧館のとなりの建物の本館の1階には、この病院の年表が大きく掲示されており、歴史を見ることができるようになっています。

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戦後70年という節目である今年。政治でも、戦争そして平和について考えさせられる大きな出来事がありました。

 

終戦から時間が経つにつれ、戦争と平和について考えるのはだんだん難しくなってきている気がします。

日没が早くなった秋の夜長。こういう類いの本を読んでみるのも良いかもしれません。

 

 

 

◆ 明治村にある「お助け橋」 隅田川新大橋の旧橋

[隅田の花火] 2015年10月 2日 09:00

 隅田川に架かる橋のひとつ「新大橋」。 オレンジ色の主塔が特徴的なこの橋は、清洲橋のひとつ上流にあり、中央区の日本橋浜町から江東区の森下方面に繋がります。1977年(昭和52)に架けられた比較的新しい橋です。

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今回はその先代の橋、1912年(明治45)に現在地に架けられた鉄製の旧橋の話なのですが、この橋はトラス橋という剛健なフォルムでありながら、優美な装飾が施された橋だったといいます(下の写真は現在の橋の主塔に取り付けられているプレートで旧橋が描かれています)。

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この旧橋の一部は、愛知県犬山市にある「博物館明治村」に登録有形文化財として保存展示されています。かねてから明治村には行ってみたかったのですが、ようやく念願が叶いこのシルバーウィークに見に行って来ました。

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一目見た感想ですが、意外に大きかった印象でした。明治村には日本橋浜町側の8分の1程度が移築されているのですが、これを単純に8倍した姿を隅田川上にあったかのように想像してみると、当時もかなり大きく感じられたのではないかと思います。
全長173メートル、幅25メートル、開通して間もなく市電も通るようになったそうで、この明治村にもその跡が再現されています。

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それと、この橋の特徴とされる装飾。思っていたよりも繊細で美しかったです。橋自体が重厚な感じなので、よりそう感じられるのかもしれません。一番驚きだったのはの野村素介筆の「橋銘板」。色合いはエレガントを通り越してゴージャスな感じです。

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橋銘板、照明器具や歩道の高欄の色は、以前灰色系のペンキで塗装していたそうなのですが、今年の春に創建当時の色に復原する形で塗り直されたとのことです(下の写真は、曲線を多く取り入れた歩道の高欄の装飾)。

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白い花崗岩製の高欄や親柱は荘厳さを感じさせる造りです。

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明治時代に架けられたこの旧橋ですが、よく話に取り上げられるのは関東大震災の時の出来事です。

 

他の橋が震災で落ちる中、当時比較的新しかったこの橋は落ちることなく、燃えることもなく、逃げ惑いこの橋に殺到した群衆の多くの命を救いました。そのため「人助け橋」とか「お助け橋」と呼ばれるようになりました。

 

現在の橋の中央区側の袂には、「大震災避難記念碑」「人助け橋の由来碑」があります。

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「大震災避難記念碑」は思っていたよりも大きく、見上げるような感じ。これは当時の人々のこの橋に対する感謝の大きさを物語るものなのかもしれません。

 

大震災の10年後の昭和8年に建てられたものだそうで、書かれているのは、この橋に避難されてきた近隣神社の神の力・荷物を捨てる適切な判断をした人の力があったので多数の避難者が助かった、というような内容です。

 

 

 一方の小さいほうの「人助け橋の由来碑」は、旧橋から今の橋への交代時に建てられた碑。震災当時、久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する警察官の適切な判断を称える内容が記されています。

 

多数の避難者を誘導すると同時に、このままでは避難者全員が焼死してしまうと判断し燃えそうな荷物を隅田川に捨てさせ、一万人を超える命を救ったのだそうです。

 

ですが、この橋が防災上も優れた橋だったということがいちばんの理由ではないかと思います。

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明治村は今年50周年だそうです。こういう歴史的価値のある建造物が現物の資料として残され、見ることができ、感じることができること。すばらしいことだと思います。
橋に限らず、ビルや建物の建て替えの際には後世に伝えるための努力も必要だということをここに来て感じました。

 

 

 
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