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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日本橋川周辺散策コース(2)

[CAM] 2015年12月 5日 12:00

日本橋

IMG_2375.JPG日本橋由来記

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日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區

 

 

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 国指定重要文化財
日本橋
所在地 中央区日本橋一丁目~日本橋室町一丁目
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

日本橋魚河岸跡

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天正年間(1573~1592)に家康の関東入国の際、摂津国(大阪府の一部と兵庫県の一部)西成郡の漁夫30余名を江戸に移した。
漁夫は漁獲の一部を幕府に納め残りを一般に販売した。慶長年間(1596~1615)に至り漁をするものとそれを商うものとが区分されて市場の形態が整った。
大正12年(1923)関東大震災で築地に移転するまでの300余年、江戸・東京における魚河岸の繁栄をほしいままにした。

 

西河岸橋

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このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として、栄えてきました。
この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋右岸地域が、西河岸町という地名であったことから"西河岸橋"と名付けられたものです。
初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けたこの橋は、大正14年に現在の橋に架け替えられました。
区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において、痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
建築の諸元
形 式  3径間連続鋼構桁橋
橋 長  52.0m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
橋 下  日本橋川
着 工  大正13年12月
竣 工  大正14年8月
施工者 東京市

平成3年3月 東京都中央区

 

裏河岸(北河岸)

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所在地 中央区日本橋本石町一‐一~日本橋室町一‐一地域
明治十年十二月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。
『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店とも呼ばれたといいます。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

 

日本橋川周辺散策コース(3)

[CAM] 2015年12月 5日 12:00

日本橋西河岸地蔵教会

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板絵着色 お千代の図額

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所在地 中央区八重洲1-2-5
日本橋西河岸地蔵寺教会
大正四年(1915)三月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時二十一歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千代の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和二十四年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願をしました。「日本橋」は槍物町(現、日本橋三丁目、八重洲一丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千代は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千代役に起用されて好演し、これが出世役となりました。
ここに所蔵される「お千代の図額」は、二度目のお千代役である昭和十三年の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千代の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください)
平成七年三月
中央区教育委員会

 

夢二・港屋ゆかりの地

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情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(一八八四~一九三四)は、大正三年(一九一四)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。商業美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で、「港屋」は日本の商業美術史上重要な意義を持つものであり、その存在を永く記録にとどめるため、ここに記念碑を設置し、故人の業績を讃えるものである。
なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約十三米、間口約二間(三,六米)であった。

まてど暮せど
来ぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよひは
月も出ぬさうな

 

一石橋

 

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一石橋の歴史
一石橋は寛永年間(1624~1647)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。

 

一石橋の親柱


所在地 八重洲1-11先
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
平成十五年三月
中央区教育委員会

 

一石橋迷子しらせ石標

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所在地 中央区八重洲一町目十一番地先
指 定 昭和十七年九月   旧跡
    昭和五十八年五月六日種別変更
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満()よひ子の志()るべ」、右側には、「志()らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会

 

 

日本橋川周辺散策コース(1)

[CAM] 2015年12月 4日 20:00

茅場橋(写真は2015年11月28日撮影、以下同じ)

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鎧の渡し跡

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鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治五年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
「江戸名所図絵」や安藤広重の「名所江戸百景」には、渡しの図が描かれ、また、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。
縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも
     逆さにうつる 鎧のわたし
              和朝亭 国盛
平成六年三月
中央区教育委員会

 

メイゾン鴻乃巣跡(小網町)

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 兜神社

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江戸橋

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東芝の発祥

[CAM] 2015年12月 3日 20:00

 銀座で生まれた企業は多い。例えば、資生堂、大成建設(発足時;大倉組商会)、ヤマト運輸(大和運輸)、電通(日本広告株式会社)、大日本印刷(秀英舎)等であるが、東芝もそうであることはあまり知られていない?のではないか。

 

 創業者・田中久重(17991881)が、明治87月、現在の銀座8丁目915号に、店舗・住宅併用の工場を構えた。この「田中製作所」が、日本最初の電信機工場であり、東芝の発祥である。この場所は、開港場・横浜と鉄道が結ばれた新橋駅が至近であるという地の利があった。田中久重は「万般の機械弘安の依頼に応ず」という看板を出し、ここで、国産の電信機はじめ、生糸試験機などを考案・製作した。

 創業者・田中久重は明治14年に82歳で亡くなったが、その後は、養子が二代目久重を名のって継いだ。

 明治15年になると、鉄道馬車が新橋と日本橋間に開通する。そうしたなか、同年11月には、二代目久重がアーク灯点火、電灯の実験宣伝を行い、電気事業は急速に発展する。

 田中製作所は、この年、海軍省からの発注もあり、銀座工場が手ぜまになったため、芝浦に1万平米の土地を得て、工場部門を移転させた。銀座では事務・販売を主とするようになったが、関東大震災によって焼失したために移転に踏み切った。

そして、昭和14年には、芝浦製作所(田中製作所から改称)と東京電気が合併して、東京芝浦電気となった。東京電気も、その前身である白熱電燈球製造株式会社は、現在の銀座4丁目4番地に事務所兼工場を設けたのが発祥となっている。

 

(以上は、主として、原田弘『銀座 煉瓦と水があった日々』白馬出版 1988年発行に拠った。)