こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
今回は【中央区観光検定対策】川・橋編最終回で、河川の埋め立てを取り上げます。
(これまでの記事はこちらから→(1)、(2)、(3))
多くの河川や掘割により、江戸時代から「水の都」と呼べるほどだった現在の中央区。
しかし時代を経るにつれ河川は埋め立てられ、その名残はまちなかの案内板や残された親柱の存在で知ることができます。
いつ、何を機に埋め立てられ、それによってまちがどう変わったのか...
そういったことを5W1H的に覚えておくと、出来事同士を因果関係で結ぶことができ、
より中央区の発展史が頭に入りやすくなります
(↑昨年受験検時の対策ノートの1ページ)
河川の埋め立ての契機となった出来事は、大きく分けて以下の4つに分けられます。
震災復興、戦火復興、東京オリンピック、その他。
■震災復興
入船川、鉄砲洲川、西堀留川(伊勢町堀)はこの早い段階で埋め立てられました。
■戦火復興
当時、残土やがれきを運ぶ車両や燃料がありませんでした。
そこで、水路としてあまり必要ではない川を残土やがれきで埋め立てて土地を造成し、
それを売却して事業費を捻出するという都のがれき処理対策が実施されました
それこそがこの埋め立てで、外堀川の北半分や三十間掘川はこの時姿を消しました。
■東京オリンピック(1964年、第18回)
オリンピックに向け、高速道路、地下鉄、幹線道路の整備が急がれました。
そこで、築地川と楓川を埋め立て、一号線(京橋~芝浦間の4.5km)を中心とした首都高を建設し、佃大橋の架橋(1964年)により、佃川の埋め立てが行われました。
しかし、あまりに立て続けに埋め立てたため、雨水の排水が不可能に
そこで、東京都下水道局のポンプ場が浜町、中洲、箱崎町に設けられました。
〈余談〉
聖火リレーのコースは、清洲橋~茅場橋間の1.5km、
茅場橋~鍛冶橋間の2.0kmでした
河川の埋め立てについては特に詳しく覚えておく必要はありませんが、
知っているときっとまち歩きが楽しくなると思います
※本記事は、個人的な検定対策の一部をご紹介するものです。
ここに書かれた内容を覚えると合格できるというものではございません。
予めお含みおきくださいませ。