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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央区の歩道っておもしろい!22【明石町緑道】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月13日 12:00

green01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。

今日は、聖路加ガーデン前の緑道を歩きたいと思います。

歩道内の植え込みは緑豊かで、小さな水路が走り、春には桜並木がきれいです。

明治時代、ここ明石町一帯に、築地外国人居留地があったことを物語る、貴重な遺構や記念碑を訪ねてみましょう。

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green02m.JPG♪ トイスラー記念館

昭和8年(1875)、隅田川畔に聖路加国際病院の宣教師館が建設されました。設計は、聖路加国際病院の設計にも携わった、J・バーガミニィ。鉄筋コンクリート造りの、一部木造を用いた2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる、重厚な風格のある建物です。
外部に柱や梁を表現した、ハーフティンバー風の意匠を凝らしており、室内はチューダー・ゴシック風、玄関やリビングなどに、重厚な木の内装が施されています。平成10年に移築復元され、現在、聖路加国際病院の中庭に建っています。


green03m.jpg♪ アメリカ公使館

安政6年(1859)、初代アメリカ公使ハリスは、現在の港区善福寺に、アメリカ公使館を開設します。ついで翌年には、築地外国人居留地に公使館を新築し、ここに形容を整えました。木造2階建て、クリーム色の洋館だったといいます。

明治23年(1890)、現在のアメリカ大使館所在地、赤坂へ移ります。築地外国人居留地内の跡地には、小松石でできた5基の記念碑が残されていました。約1m四方の石材に、アメリカを象徴する文様が刻まれています。
この記念碑は、聖路加ガーデンの中庭に2基、聖路加国際病院の中庭、トイスラー記念館前に3基が保存されています。


green04m.jpg♪ ヘンリー・フォールズ住居跡

スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズは、明治7年(1874)から同19年(1886)までの日本滞在の間、この地に居住しました。
日本で行われていた指印の習慣に興味を持ち、科学的な指紋の研究を行いました。明治13年(1880)、英国の雑誌「ネーチュア」に投稿した論文は、科学的指紋法に関する世界初の論文といわれ、その中で、犯罪者の個人識別の経験を発表し、指紋の遺伝関係にまで言及しました。のち明治44年(1911)、我が国の警察において、はじめて指紋法が採用されました。


♪ 隅田川畔にある記念碑

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1.築地運上所跡の地碑
江戸幕府は慶応3年(1867)、築地鉄砲洲明石町一帯を、築地外国人居留地と定め、税関業務等を行う運上所を設けました。これが、東京税関の始まりです。

2.電信創業の地碑
明治2年(1869)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた伝信機役所を結ぶ、約32キロメートルの電信線架設工事が始まりました。同年12月に業務を開始。我が国最初の公衆電気通信であり、文明開化に大きな役割を果たしました。


♪ 学校の記念碑
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1.青山学院記念の地碑 明治10年(1877)
2.明治学院発祥の地碑 明治10年(1877)
3.女子聖学院発祥の地碑 明治38年(1905)


green11m.jpg春になり、きらきらと光る水面に、桜の花びらの浮かぶ様子が、湊っ子は好きです。

水路には、小さな噴水があり、ほんの一歩でまたげるほどの、かわいらしい橋も架かっているんです。

ここは名もない道ですが、歩く人を楽しませてくれる、個性豊かな通りです。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第29号 平成30年12月9日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!21【居留地中央通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月 3日 12:00

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こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地六丁目4番から湊一丁目1番までの、「居留地中央通り」を歩きたいと思います。この通りは、平成25年度に愛称のついた、京橋地域で一番新しい通りです。最近、整備の完了した入船・湊地域の歩道には、トキワヤマボウシの木が植えられました。

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♪ YEDO HOTEL


晴海通りに面した、築地市場内の駐車場は、その昔軍艦操練所があった場所です。

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)、この地にあった築地講武所内に、軍艦教授所を創設したのが始まりでした。

旗本や御家人、諸藩士から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転の練習などが行われ、向将監(むかいしょうげん)や、勝海舟などが頭取を務めました。

慶応元年(1865)には、海軍所と改称されましたが、類焼により、現在の旧浜離宮庭園の地に移ります。

明治元年(1868)、新政府により「東京開市」が各国に通告され、今の明石町一帯に、築地外国人居留地が設けられました。海軍所跡地に建設された「築地ホテル館」は、「外国人旅館」「YEDO HOTEL(江戸ホテル)」などとも称され、交易で訪れた外国人のための逗留施設として開業しました。

kyotu10.png設計・施工は、清水喜助と考えられており、木造2階建、客室は102室もある大きなホテルでした。

外壁はなまこ壁、各室には暖炉が備え付けられて、海岸側にはベランダがあり、東京湾を一望できました。

また、印象的なのは、建物の中央には塔屋が設けられており、そこに鐘が吊るされて、さらに塔屋を中心に、左右対称の造りになっているところです。

これは、明治20年代まで各地に見られた、「擬洋風(開化式)建築」の典型的な特徴であり、外観は洋風でありながら、建築資材や技法は和式となっています。

しかしながら、明治5年(1872)、銀座の大火により、築地ホテル館は全焼してしまいました。


kyotu08.jpg♪ 築地外国人居留地への玄関口


さぁ、あかつき公園にさしかかりました。今のあかつき公園一帯は、かつて「明石堀」と呼ばれる大きなお堀でした。その中央に架かっていたのが、外国人居留地への玄関口とされた、「新栄橋」です。

居留地中央通りは、かつての新栄橋を渡る格好になっています。新橋から来た多くの外国人は、この橋を馬車で渡って、築地外国人居留地に入りました。

kyotu02.JPG♪ カトリック築地教会

聖ルカ通りを横切り、居留地通りと交差する地点、かつての居留地「36番」には、樹木に囲まれた小さな教会が、ひっそりとたたずんでいます。カトリック築地教会です。

カトリック築地教会は、明治7年(1874)、東京で最初の教会として、築地外国人居留地に建てられました。当初の名前は、築地聖ヨゼフ天主堂。東京で最初のカテドラル(司教座聖堂)でもありました。

kyotyu12.png明治11年(1878)、ゴシック様式赤レンガ造りの聖堂が建てられます。明治21年(1888)には、神学校内に暁星学園が発祥しました。ところが、関東大震災により焼失。現在の聖堂は、昭和2年(1927)、ジロジアス神父のもと再建されたものです。

レイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、ドリス式オーダー列柱、ペディメント(破風)には、チューリップとバラの彫刻が施されています。

明石町一帯は空襲を免れ、カトリック築地教会は、東京で最も古い教会のひとつとして、壮麗な姿を今に伝えています。

kyotu11.png聖堂の中に保存されているのは、「江戸のジャンヌ・ルイーズ」の愛称で親しまれた、アンジェラスの鐘です。明治9年(1876)にフランスのレンヌより贈られたもので、大小ふたつの鐘の対でした。ルイーズは小さいほう。大きいジョセフィーヌは、大正9年(1920)、大司教座と共に、関口教会へ移りました。


♪ 居留地中央通りに建つ記念碑

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1.明治14年(1881)雙葉学園発祥の地碑

2.明治15年(1882)立教女学校発祥の地碑

3.明治21年(1888)暁星学園発祥の地碑

4.明治28年(1895)関東学院大学発祥の地碑


また、居留地の外には、外国人に家を貸すことの許された「相対借地地域(雑居地)」というものがありました。居留地内には住まわず、この地区に住む外国人も多かったそうです。

相対借地地域は、居留地中央通りを沿うようにして、現在の築地六丁目・七丁目、入船・湊地域と、新富町がそれにあたりました。

今も入船地域では、聖路加国際病院の十字架がまっすぐに見える路地があります。地域のみなさんには、"十字架通り"の愛称で親しまれています。
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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第28号 平成30年12月2日

 

 
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