[巻渕彰/写楽さい]
2011年3月28日 09:00
中央区立郷土天文館主催の春の文化財めぐり「近代橋梁の宝庫~中央区の橋をたずねる」が3月26日(土)に開催された。特に今回は大震災後の復興を見つめ直す機会にもなった、といえよう。
20人ほどの参加者は午前9時半、郷土天文館に集まり、案内役の伊東孝教授(日本大学理工学部社会交通工学科)から事前講義を受け、勝鬨橋へ歩く。重要文化財指定された橋のひとつで、開閉はどうなるのか、の話題が出る。バス移動で釆女橋に着く。かつて築地川、いま高速道路上に架かるアーチ橋だ。三原橋から三十間堀跡をたどるここは、戦後の瓦礫で埋め立てられた。新橋跡を経て、午前のコースを終える。
午後はバスで新常盤橋へ。常磐橋、常盤橋、一石橋など日本橋川に沿って歩き、日本橋に着く。きれいにお化粧直しされ、架橋100周年を祝う行事も、こんどの東日本大震災で自粛のようだ。昭和通りを先に進むが、この道路は関東大震災復興事業で新設されたもの。やがて浅草橋から柳橋へ。永代橋をモデルにしたこの橋をはじめ、隅田川に架かる両国橋から下流には復興事業の橋が続く。万年橋(江東区)側から清洲橋を眺める。豊海橋、永代橋(写真:震災復興事業で架けられ、当時は帝都の門といわれた隅田川の第一橋)をめぐり、最終目的地の南高橋へ向かう。100年以上前に架けられた旧両国橋の一部を利用したリユース橋とは興味深い。この日は晴天だが、肌寒い風が強い。桜のつぼみは暖かい春を待っている。午後4時過ぎ郷土天文館に戻り、一日の行程を終えた。
大正12年(1923)9月関東大震災発生後の復興事業は、多額の資本を投じ、昭和5年(1930)まで約7年間続けられた、という。中央区内でも、この事業で施工された橋のいくつかは、いまも現役として立派に役割を果たし、さらに近代橋梁として文化財登録されているのには感動する。復興事業で開通した道路は今日の都市機能に生かされている。関東大震災・東京大空襲と壊滅した苦難を当時の人々は克服して、現在の町が成り立っていることを忘れてはならない。
東日本大震災で被災された都市も、日本が総力を結集して復旧から復興をめざす。長い道のりであろうが、防災に強い都市計画を進めて、必ずや、これまで以上によりよい都市再建ができることを願ってやまない。がんばろう東北!
[巻渕彰/写楽さい]
2011年3月16日 16:00
3月11日の「東北地方太平洋沖地震」で被災された皆さまや地域に心からお見舞い申し上げます。
わが国最大のM9.0、巨大な津波の猛威で未曾有の大震災となった。全国民を挙げての救援や援助、復旧・復興に向けた支援が求められている。
忘れたころにやってくる天災。地震列島のわが国で、その歴史記録から学び取れるものはないだろうか。あらためて振り返ってみたい。
今から156年前、安政期に江戸を襲った大地震があった。安政2年(1855)10月2日、午後10時ごろ発生した「安政江戸地震」で、死者は町人・武家を合わせて1万人を超えたという。M6.9と推定され、震源地は荒川河口とも、柏・我孫子付近ともいわれて、江戸直下であった。
町奉行所の対応は早かった。八丁堀の南町奉行所与力・佐久間長敬(さくま・おさひろ)著『安政大地震実験談』によれば、発生した当夜、町奉行所で公の対策が評議、即決された。
その主なものは、「炊き出し、握り飯を配布する。宿無し者へお救い小屋を建てる。けが人の救療・手当て。日用品の確保を問屋に命じる。売り惜しみ、買占めを禁ずる。諸物価・手間賃の高騰を禁ずる。与力・同心の町内見回り、救助、取締り」などで、救済の「三仕法」として、「お救い小屋」「野宿者への炊き出し、握り飯の配布」「お救い米」を定めている。
「お救い小屋」は今でいう避難場所であろう。幸橋門外、深川、浅草、上野など5カ所設置された。前書では、「構造は丸太を合掌に組み立て、屋根はとばを葺く。入口は莚(むしろ)を下げる。中は樫丸太の上に松の板を並べ畳を敷く。これらの諸品は定請負人が常備している。千坪くらいの仮小屋は半日で出来る仕組みがある」とされる。「炊き出し」も向柳原、牛込など5カ所で、握り飯・梅干し・沢庵2切れを紙包みして、延べ20万食を配ったという。「お救い米」は寛政4年(1792)以来、火災時に支給される一般的な救助仕法で、受給者は38万人に達したそうだ。
救援活動としての「施行(せぎょう)」もあった。金銭、食品、髪結いなどを届ける「お救い小屋施行」、被災者町人に米、金銭を施行する「居回り施行」、門前地で行われる「武家・寺院の施行」などで、救済がされた。
『藤岡屋日記』に地震体験記が載っている。
「しきりにドロドロと雷が鳴り響くような音がして、家蔵は浪が打ち寄せるように揺れた。土蔵・塀・武家・町家の器物が崩れる音は、千か万かの雷が頭上に落ちたかのようで、往来に出た人は蹲ったまま動かなかった」「揺れた後、八方から出火し、我先と逃げ出した」「土蔵はことのほか被害が大きく、一瞬にして崩れてしまった」「地震の夜は大雪洞(ぼんぼり)、弓張りに火をともして大道で夜を明かした。翌3日は大揺れはなかったが、震返しがあるかもという噂におどおどした」などとある。
地震のあと、災害かわら版や多色刷りの鯰絵(写真)などが多数出版された。かわら版は『なゐの日並』(=「なゐ」とは地震の古語)によれば、発生2日後には「地震火事方角付け」が売られ、その後も詳しいものが増えていったそうだが、中には「みだり事」つまり、でたらめなものも多かったそうだ。鯰絵は、「神無月に出雲大社へ神々が集まる陰暦10月に、鹿島神は出雲に出掛けたため、要石(かなめいし)の押さえができなくなったため、地底に閉じ込められていた鯰が動き出して地震が起こった」とする民間信仰をもとにしたものであるといわれる。